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03:決断

、テニス部のマネージャーやらね?」

そう言って笑う切原を、はしばらくぽかんとした表情で見つめた。
その言葉の意味するところが、一瞬よく理解出来なかったのだ。
瞬きを繰り返し、は彼の言葉を頭の中で反復する。
――そして。
彼の言葉の意味をやっと理解した瞬間、は、大声を上げた。

「マ……マネージャー!? テニス部の!? 私があ!!?」

驚く余り思わず膝の上に置いていた弁当を落としそうになってしまい、は慌ててわたわたとバランスをとる。
なんとか弁当を守り切ると、はもう一度彼の顔を見上げて問いかけた。

「ちょっと待って、冗談じゃなくて? 本気で言ってるの?」
「もち。、帰宅部なんだろ? に聞いたぜ」
「た、確かにそうなんだけど……」

テニス部のマネージャーなんて、そんな重要そうな役割を自分などに――しかもそんなあっけらかんとした調子で頼んでもいいものなのだろうか。
しかし驚いて目を見開くとは対照的に、あっさりと切原は首を縦に振り、再度笑みを浮かべた。

「ウチ、今さ、マネージャーいねぇんだよ。でさ、雑用とか全部俺ら部員が持ち回りでやってる状態なんだよね」

切原が言うと、言葉を失って停止しているの隣で、が思い出したように呟いた。

「あー、そういえば、昨日だって切原君が部室の掃除やれって言われてたもんね」

そんな彼女の言葉につられて、は昨日のことを思い出す。
確かに、昨日彼は部室の掃除をやって帰れと真田に怒られていた。

「そーそー。マネージャーがいれば、部室の掃除とか全部任せて、俺らも練習に集中できんだけどさ。今はまだ、まぁなんとかやってっけど……もうすぐ県大会も始まるしよ。掃除とか備品整理とか、他人のスコア取りとか……正直そーいうことに時間取られたくねぇんだよな」

鬱陶しそうに呟いて、切原は溜息を零し、続ける。

「まあ、俺はレギュラーだからさ。練習優先で、ある程度雑用を免除されてる部分はあるんだけどな。それでも、完全にゼロって訳にはいかねぇし」

彼の言葉に、はふうんと頷くと、意外そうな表情を浮かべた。

「そうなんだ。でも、テニス部のマネージャーなんて、やりたがる子多いんだと思ってた。いないなんて、ちょっと意外かも」

テニス部といえば、その実力から女子にもかなり人気のある部だ。
そのテニス部が、もう五月になるのにマネージャーが全くいないというのは、不思議な話だとも思った。

「いや、そうでもねーよ。それに結構ハードだから、軽い気持ちで入った奴は大抵すぐに辞めちまうしな。去年までマネージャーやってた先輩……三年だったから、もう卒業しちまって今はいねーんだけどさ。その人が引退して辞めてから、何人も入っては辞めてったんだわ」

思い出すように言って、切原は続ける。

「四月になってからも、新一年で何人か入った奴いたけどさ。どいつもこいつも、二週間ももたずに辞めちまってよー。おかげで『テニス部のマネージャーはキツイ、やるもんじゃない』みたいな噂が立っちゃったみたいでね。ここ最近は、希望者すらいなかったぜ」
「そんなにハードなんだ」
「内容は勿論だけど、やっぱ休みねーのが普通の奴にゃキツイんだろうな。朝は七時から朝練で、昼練あるときもあるし、勿論下校時刻まで帰れねーし。それに加えて、土曜日も普通に練習あるし、日曜も練習試合だのレギュラー練習だの、なんだかんだでほとんど潰れちまうし。多分、丸一日休みなんて一ヶ月に一回くらいあればいいほうだぜ。しかも今の時期は大会前で特に忙しいから、下手すりゃ二ヶ月近く休みナシとかもフツーに有り得るんだわ」

淡々と話す切原の言葉に、二人は思わず目を見合わせた。
確かにそれが本当なら、かなりハードな部類に入るだろう。

「うわ……それは確かにきついかも。お気楽極楽な美術部とは、雲泥の差だわ」
「はは、もしが美術部じゃなかったら、にも入ってもらいたかった所なんだけどな。兼部できるような楽な仕事じゃねーし、そもそもウチ、兼部禁止なんだわ」

切原は残念そうに苦笑すると、の方を向き直し、続けた。

「でも、は今帰宅部なんだったら問題ないよな。どう? やらね?」

にっこりと人懐っこい笑みを浮かべ、彼はに問い掛けた。
しかし、彼の笑顔とは対照的に、は困ったように眉をひそめる。

「……え、えっと……その」

そこまでハードだと聞いたら、即答など出来るわけがない。
大体、テニス経験やマネージャー経験どころか、部活動経験すら無いのだ。

「わ、私に出来るかどうか……。それに、私テニスのこと何も知らないし……」
なら大丈夫だって!! テニスのルールなんてそんな難しくねーし、すぐ覚えられると思うぜ!!」

腰の引けているに、切原は早口で捲し立てる。
――そして。

「それに、真田副部長のこともっと知りてぇんだろ? ちょうどいいじゃん」

意味深にそう言うと、彼はニッと笑った。
やはり、先ほどのとの会話を全て聞かれていたのだ。
はなんだかとても恥ずかしくなり、顔が熱くなった。

「……そ、それは……そうなんだけど……」

つい先ほど自分で言った言葉ではあったけれど、他人に言われると、なんだかとても気恥ずかしい。
どんどん顔が紅潮してゆくのが、自分でもわかった。
しかし、やってみてもいいかもしれないという気持ちが、全くゼロでは無いのも事実だった。
だから、はっきりと断りきることも出来ない。
が、戸惑い思いあぐねていると、目の前でぱんっと大きい音が聞こえた。
何事かと思い顔を上げると、切原が掌を合わせて、を大袈裟に拝み倒す真似をしている姿が目に入る。

「なあ、頼むわ。マジ、助けると思ってさー。いろいろ協力もするからよ」
「ちょ、ちょっと、切原君……」

切原のその行動に驚いて、が狼狽えるような表情をした、その時。

、やってみれば?」

ずっと側で黙って何かを考えていたが、ふいに口を開いた。
驚いての方を向くと、彼女はの目を見つめ、真剣な表情で言葉を続けた。

「真田先輩のことを知れる、最高のチャンスじゃない。やっぱり、外から見てるだけじゃ分からないことっていっぱいあるしさ。それに、確かにすっごく大変そうだけど、私、ならちゃんとできると思うしね」
……」
「頑張ってみなよ。私、応援するからさ!」

そう言って、は満面の笑みを浮かべた。
いつも自分のことを想い、考えてくれる。そんな彼女がこうまで言ってくれるのだ、ちゃんと落ち着いて、真剣に考えてみよう。
は、僅かに視線を落として、頭の中を整理し始めた。

テニス部のマネージャーは、確かにとても大変そうだ。
今まで帰宅部というぬるま湯に浸かってきた自分には、ものすごく大変なことかもしれない。
けれど、彼を――自分の心に何故か居着いて離れない、あの真田と言う人物を知る最高のチャンスであることは、間違いないだろう。同じ部活に入って、彼と一緒に活動できるのだから。
それに、昨日自分をあんなにとらえて離さなかったあのテニスを、再度――今度はもっと近くで、見ることができるかもしれない。

(……先輩のテニスを、近くで見られる……)

なんだかとても魅力的に感じて、の心臓の鼓動が早くなった。
それに、今朝彼らの姿を見たときに、一生懸命取り組むその姿を羨ましく思い、彼らみたいに一生懸命になれる何かを見つけたいと思ったのも確かだ。
もし、マネージャーという仕事にそれを見出せるとしたら、一石二鳥ではないだろうか。
――入学から一年経ち、学校生活には充分慣れた。
登下校の時間の都合だけで選んだ帰宅部という肩書きを捨てて、チャレンジしてみる価値は充分にあるように思えた。
顔を上げると、は真剣な面持ちで口を開く。

「本当に、私にやれる……かな」

その言葉を聞くやいなや、切原はとても嬉しそうに笑った。

「もっちろん、出来るって!」
なら大丈夫だと思うな。美術部の私には、部活の事で手伝えることはないかもしれないけど……応援してるよ、!」

そう言って、も笑う。
そんな二人の笑顔が、最後の一押しになった。

「うん、やってみる!」

笑顔で、は頷いた。
その途端、切原が嬉しそうに片手を振り上げて叫ぶ。

「よっしゃ!! 早速、今日の放課後部室に来てくれよ。先輩たちには、今からメール送って事情話しとくしさ」

彼は笑顔でそう言って、早速携帯電話を取り出した。

「う、うん、わかった」

彼の喜びようとその行動の早さに少し驚きながら、は首を縦に振る。

「切原君、のことお願いね」
「ああ、任せとけって! 仕事のことも、真田副部長のこともな。……あ、も、できればちょくちょく様子見に来てくれよ」
「うん、やっぱりのこと心配だしね。部活の合間に時間が出来たら、なるべく見にいくようにするよ」
「ついでに、俺の応援なんかもしてもらえると嬉しいんだけどねー」
「あはは、オッケー!」

そんな会話をと交わしながら、切原は取り出した携帯を器用に操り、メールを打つ。
は、何故か少し緊張しながら、その光景をじっと見つめていた。
やがて、彼の手が止まる。
そして、打った文章に一通り目を通し、「よし」と軽く頷くと、彼は親指で軽快に携帯のボタンを押した。

「よし、送信っと!」

送信――つまり、彼が自分のことを連絡したのだ。
そう思うと、思わず胸がどくんと鳴った。
は首を傾げ、携帯を見つめる切原の顔を覗き込むようにして、彼にそっと問い掛ける。

「……送ったのって真田先輩?」
「ああ、副部長と、あと柳先輩な」

――やっぱり、そうか。

「何て送ったの?」
「『マネージャーになってくれる子見つけたんで、放課後連れて行きますんでヨロシク』って」
そう言いながら、切原はいったん携帯を制服のポケットにしまう。しかし、それはすぐに軽快な音楽を奏でて、切原を呼んだ。

「早ぇーなー」

再度携帯を開け、彼は液晶を覗き込む。

「……柳先輩だ。今、副部長と一緒にいるんだってさ」

切原が口にした「副部長」という言葉にどきっとして、は顔を上げた。

「な、なんて?」
「『今弦一郎と一緒にいる。マネージャーの件、了解した。とりあえず放課後部室に連れてきてくれ』……だってよ」

口調を変えて、切原がメールを読み上げる。
きっと、柳先輩と言う人の口真似なのだろう。

「ま、そういうわけだから。放課後よろしくな!」

そう言うと、切原は携帯を再度ポケットに仕舞った。
――そして。

「じゃ、オレ先に戻るわ。邪魔したな」

彼は軽く手を振って、その場を去っていった。
校舎に戻る彼を見送り、その姿が見えなくなると、二人はどちらからともなく顔を見合わせた。

「頑張ってね、
「うん」

親友のあたたかい笑顔に、も自然と笑顔になった。
――精一杯頑張ろう。この優しい親友の応援に、ちゃんと応えられるように。
そんなことを強く思いながら、はそっと口を開いた。

「ありがとね、
「ん? 何が」
「背中押してくれて、さ」

の言葉に、はぱちぱちと瞬きをする。
しかし、すぐににかっとと笑い、「どーいたしまして!」と元気良く親指を立てた。
そんなを微笑ましそうに見つめていただったが、ふとの頭の後ろにある、中庭に設置されている時計に目を止めた。
その針は、もう十分ほどで昼休みが終わる時間を指している。
は、慌ててに声をかけた。

「わ、もうこんな時間! 、お弁当、早く食べちゃわないと!」
「ほんとだ、急がなくちゃ!」

そう言うと、二人は今までの倍以上のスピードで、弁当をかきこんだのだった。

初稿:2006/06/08
改訂:2010/02/26
改訂:2024/10/24

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