1人目、柳先輩が抜けたときは仕方ないかと思った。
だって、柳先輩だし。
今までのゲーム、ずっと1位か2位で、一度も3位以下に落ちたことないし。
2人目、仁王先輩が抜けたときも、流石だとしか思わなかった。
勝負事にはめちゃくちゃ強い人で、柳先輩が1位じゃないときは必ず仁王先輩が1位だったから。
3人目、幸村先輩。4人目、柳生先輩。
自分がカードを引く度に。
誰かが手札を捨てる度に。
どんどん心臓の鼓動が高鳴っていって。
自分の手札の枚数は変わらないままなのに、何故か周りはポイポイ捨てていく。
――残り3人の時点で、とうとうジョーカーを引いてしまったときには、流石に嫌な予感がした。
そして。
自分とともに残り2枚のままずっと残っていた切原くんが、自分の持っていたジョーカーじゃない方のカードに手をかけた瞬間――
終わったと、思った。
「お前さ……絶対才能あるぜぃ。ババ抜き最弱王のな」
丸井の声が部室に響く。
しかし、そんな声も、には届いていないようだ。
とうとう7度目の付き合いとなった、残った1枚のジョーカーを見ながら、はただただ脱力していた。
(……私……2枚だった、よ、ね?)
ババ抜きというゲームの特性上、手持ちのカードが増えることはないし、たった1回揃えば、次のプレイヤーにカードを引いてもらって上がれたはずだった。
たった1回、1回でいいのだ。
なのに、その1回が叶うことはなかった。
自分はそんなに弱くて、他のメンバーはそんなに強いのか。
それとも、ただひたすら運がないだけなのか。
そんなことを自問しながら、は1枚のカードを覗き込む。
すると、ジョーカーの中のピエロが、嘲笑うかのようにこちらを見ていた。
「……は顔に出過ぎなんだよな……ジョーカーに触っただけで、あんなに嬉しそうな顔されちゃ、嫌でもわかるっつーの。ったく、単純っつーか」
「シッ、赤也。がそれに気付いたら面白くないじゃろ?」
切原と仁王がそんな会話をしていたことは、は知る由もない。
――そして。
「フフ……じゃ、お楽しみの罰ゲームといこうか」
幸村が、そう言った瞬間。
の肩がびくっと震える。
――そうだった……そういえば、そんな約束をしていたっけ――
罰ゲームの発案の件は、なんだかいまいち釈然としない。しないけれど。
「約束を破るのは性に合わない」というのが、今ここに不在の、の大好きな者の口癖であり、モットーだ。
彼のそういうところが大好きだったから、自身もその考えを大切にしたいと常日頃から思っていた。
は、覚悟を決めた。
「い、いいですよ。掃除ですか、洗濯ですか? それとも、買出しですか、ネット補修ですか?」
の言葉に、幸村はふふっと笑う。
「それじゃ、いつものキミの仕事と変わらないじゃないか。そういうのは、罰ゲームって言わないんじゃない?」
「じゃ、ジュースでも奢ればいいですか?」
「負けたのがキミじゃなければ、その辺りだったかもしれないね」
「じゃ、じゃあ……校庭10周とか……?」
「キミにそんなことさせたら、真田に怒られるよ」
思いつく限りのことを言ったは、そこで止まる。
少し考えるような仕草をした後、は眉をひそめながら恐る恐る幸村に尋ねた。
「……へ、変なのじゃないんですよね?」
「うん、勿論。可愛いマネージャーに、変なことなんかさせるわけないじゃないか」
――そういう言い方が怖いんです……
などと口にできるわけもなく、は作り笑いをしながら言葉を飲み込む。
「で、幸村、結局なんなんだ?」
ジャッカルの問いかけに、幸村は穏やかな笑顔を浮かべながら口を開いた。
「簡単なことだよ。真田のことを名前で呼ぶ。それだけさ」
――は?
幸村の提案した「罰ゲーム」の内容に、部室中が静まり返った。
特に、当事者のは、完全に思考が停止しているようだ。
表情も挙動も全て止まったまま、目を見開いてただただ幸村を見ていた。
「……真田副部長のことを名前で呼ぶってこたぁ、つまりは……」
「弦一郎、と呼べということじゃな?」
「うん」
にこにこ笑いながら、幸村は言葉を続ける。
「さん、まだ一度も真田を名前で呼んだことないよね? 一度聞いてみたいなと思ってさ」
幸村の言葉に、柳がふむと頷いた。
「なるほど、確かにが弦一郎のことを名前で呼ぶのを聞いたことはないな」
現在、真田はのことを名前で呼んではいるが、は相変わらず付き合う前からの「真田先輩」呼びのままだ。
柳もまた、彼女が真田のことを名前で呼ぶところを、見てみたいと思ったこともあるにはある。あるには、あるが。
こういうところで罰ゲームなどと称して提案できてしまう辺りが、幸村の恐ろしいところだと柳は苦笑した。
「と、いうことで。真田が来たら、アイツを『弦一郎』って呼んでみてよ。ああ、これから先ずっととは言わないよ。とりあえず、一回でいいよ。俺は優しいから」
そう幸村が言った直後。
やっと意味を理解したのだろう。の顔がみるみるうちに赤く染まり始めた。
「……ちょ……ちょっと待って……くだ……」
(真田先輩を、名前で呼ぶ……?!)
とて、真田への呼び方を、全く意識したことが無いとは言わない。
自分自身、彼に名前で呼ばれたときはとても嬉しかったし、いつかは彼を下の名前で呼ぶ日が来ればいいとも思う。
しかし、今はまだまだ気恥ずかしい。
それはまだずっと先の話で、今はまだ「真田先輩」のままでいいと思うのだ。
特に、こんなところで、レギュラーメンバーにからかわれるのが目に見えている状態で、彼を名前で呼ぶなど冗談ではない。
「え、えと……幸村せんぱ、い? それは、ちょっと……。あの、何か他の……」
恐る恐る聞いてみる。
しかしその返事は、嫌味なくらいの天使のような微笑で一蹴された。
「この俺が、一度言った内容を変えるわけないと思わない?」
「……」
固まったを楽しんでいるかのような表情で、幸村は続けた。
「さん、真田が戻ってくるまで一度練習してみようか。『弦一郎』って言ってごらん?」
「せ、先輩……」
は、幸村の笑顔を見るのが怖くなり、ふと周りに視線をやった。
すると、ある者は興味深そうに、ある者は同情気味にこちらを見ている。
部室内にいる全ての者の注目を集めていると知り、は余計に恥ずかしくなった。
彼のモットーの『約束を破るのは性に合わない』を守りたいけれど。
いまは無理だ。ごめんなさい。――逃げます。
は頭の中で不在の彼に謝ると、すごい勢いで立ち上がった。
「あ、わ、私教室に忘れ物してきたかも! ちょっと見てきますね!!」
そう言うと、は慌てて部室を出ようとした。
しかし、ドアを開けようとしたその手は、ドアノブではなく空を掴み、下に落ちる。
の意思とは無関係に、ドアが開いたのだ。
――そして。
開いたドアのその向こうに立っていたのは、が先ほどからずっと待っていた者であり、今一番この場に来て欲しくなかった人物――真田だった。
「――ああ、。すまない、待たせたな。用事は終わったぞ」
彼は笑ってそう言ってくれたけれど、その言葉はの耳には届いていない。
予想外の出来事に、完全に固まってしまったのだ。
そんな彼女の背後から聞こえてきたのは、楽しそうな幸村の声だった。
「やあ、真田。グッドタイミングだね」
「……お前たちもいたのか。一体、何の話なんだ?」
何が“グッドタイミング”なのか全く判らない真田は、不思議そうな顔をして幸村を見る。
そんな真田に敢えて説明はせず、部室にいたメンバーたちはに目で合図を送った。
背中にニヤニヤしたメンバーの目線が突き刺さっているのを感じ、の体感温度がまた上昇する。
――ど、どうしよう……
は、恐る恐る真田の顔を見上げた。
その瞬間、と真田の視線がぶつかる。
――やっぱり駄目だ、と思った。
「すみません、忘れ物したのでっ!」
「!?」
真田の驚いた声が聞こえたが、それには応えず、は真田の脇をすり抜けて部室の外へと走り去ってしまった。
「おやおや、ちょっとからかい過ぎたかな?」
「どういうことだ、幸村。説明してもらうぞ」
「ふふ、実はね――」
幸村が楽しそうにいきさつを話し始めた途端。
幸村の天使のような笑顔とは対照的に、真田の眉間に深い皺が刻まれたのだった。
部室を飛び出してから、数分くらい経っただろうか。
中庭まで走ってきたところで、は足を止めた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
いきなり走ったので、呼吸の乱れが激しい。
は、膝に両手ををつきその乱れを落ち着けると、近くのベンチに腰を下ろした。
「……も、もう……」
自分の行動を思い出して、はまた恥ずかしくなった。
どうして、ああいう反応しかできないのだろう。
自分が極端に照れるから、きっと先輩達も面白がってからかうのだ。
もう少し堂々として、名前だって、気負わずに呼べばいい。
――そう、別に絶対に呼びたくない、というわけではないのだし。
そうは思っても、自分の元来の性格は簡単には変えられない。
それどころか、彼と付き合うようになってから、一層それが酷くなったような気さえする。
好きなのに――いや。
きっと好きだから。好きすぎるから。
ふとしたことで、自分のキャパを超えていっぱいいっぱいになる。
そんなことを考えながら、が大きなため息をついた、その時だった。
「!」
聞き慣れた声が聞こえ、は顔を上げた。
中庭の向こうから走ってくる真田の姿が見え、反射的に立ち上がる。
「先輩……!」
程なくして、真田はの傍まで辿り着いた。
「……全く、どこに行ったかと思ったぞ」
自分とは違い、走ってきても真田は息が全く乱れていない。
は流石だなぁと感心しつつも、走らせてしまったことを謝罪した。
「すみません、迷惑かけちゃって……」
「気にするな」
真田が少しぶっきらぼうに言った後、少しだけ、沈黙が流れる。
「……話は、聞いた」
先に口を開いたのは真田だった。
「あの馬鹿者どもが、また適当なことを言ってお前をからかったそうだな」
真田の言葉に、は頬を赤く染める。
「ごめんなさい、私が極端に恥ずかしがるから先輩達も面白がるんだって、判ってはいるんですけど……」
「気にするな、お前は悪くない」
また、沈黙。
そして再び、真田が口を開く。
「――俺の名前を呼べと、言われたそうだが」
いきなり、核心をついた言葉が真田の口から飛び出した。
の心臓が、ドクンと跳ねる。
「……はい」
「あいつらのいうことなど、気にしなくていい。だいたい、そんなものは誰かに強制されたり、無理して呼んだりするものでもなかろう。お前の好きなように呼べばいい」
真田の言葉は、いつも通りぶっきらぼうではあるが、優しさが感じられた。
彼に気を遣わせたことが申し訳なくなり、は頭を垂れる。
「すみません、呼びたくないとかじゃないんです……でも、なんだか恥ずかしくて」
「そんなことは承知しているさ。それに、お前が俺を何と呼ぼうが、お前の気持ちは判っているのだから、それで問題はないだろう」
そう言うと、真田はふっと笑って、俯くの頭にぽんと手を置いた。
「……ありがとうございます、真田先輩」
真田の手は、大きくて、優しい。
こうやって頭を撫でられていると、真田が心から自分を気遣ってくれているのが判る。
怖いとか、近寄りがたいとか言われがちな人だけど、この人は本当に優しい人なのだ。
そんな真田と付き合っているという事実を、は改めて嬉しいと思った。
そして。
この人の傍は、誰にも渡したくない。
自分だけが、彼の特別な異性でいたい、とも。
いつも彼を下の名前を呼ぶ、というのは確かにまだまだ無理だろうけれど。
でも、彼を下の名前で呼ぶのが許される女子は、自分だけであってほしい。
「……あ、あの、これからずっと、はまだ無理ですけど。いま、一度だけ、先輩のこと、お名前で呼んでもいいですか……」
の言葉に、一瞬真田の動きが止まる。
そして、彼は少し顔を紅潮させながらも、苦笑してに言った。
「、無理をする必要はないんだぞ。罰ゲームだとか言っていたが、話を聞く限り平等なルールとは到底思えん。最初から提示されていたのならともかく、お前だけが条件に片足を突っ込んだ状態で決められたルールなど、聞く必要はない」
「は、はい、確かに無理はしているかも、しれません……でも、罰ゲームとかじゃなくて、私がいま、無理をしてでも、呼びたいと……思ったんです」
は、顔を上げた。
「私、男の人を名前で呼んだこと、一度もないんです……でも、真田先輩は、特別な人だから」
一言一言を重ねる度に、顔が熱くなる。
目を逸らしたいくらい恥ずかしく、どうしようもなく照れるが、それでもは真田の目を見たまま言葉を続けた。
「私も真田先輩にとって特別だって、思いたいから。先輩のこと、下のお名前で呼んでみたい……です。駄目ですか……」
そこまで言って、の言葉は途切れる。
ほんの少しの沈黙が流れた後、真田が口を開いた。
「……駄目だと、言うわけがないだろう」
ふう、と息を吐いて、彼は被っていた帽子のつばを下げる。
その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「無理はしなくていい。いいが――お前にそう呼んでもらえるならば、やはり嬉しいと思う。……俺にとっても、勿論お前は特別なのだからな」
そう言って、真田はふっと微笑った。
彼に、そんな顔で、そんなことを言われたら、壊れてしまいそうだ。
は流石に真田の顔を見ていられなくなって、撃沈したように頭を垂れたが、意を決したように、また、顔を上げる。
――そして。
「……ん……ちろ……さ……ん」
その名前を、呼んだ。
しかし、初めて呼んだ大切なその名前は、小さすぎて自分でも聞き取れなかった。
それに、最後の方は、完全にかすれてしまった。
大きく息を吐き、もう一度――今度は、ちゃんと彼に届くようにと、ぐっと両手を祈るように組み締めながら、はその名を口にする。
「げんいちろう、さん」
の必死な声が空気を震わせた、その瞬間――真田の腕が、ぐっと彼女を包み込んだ。
「せ、先輩……!?」
急に抱きしめられ、は慌てて真田の顔を見ようとする。
しかし彼は、を抱きしめる手に、さらに力を込めた。
「すまない。今、俺の顔を見ないでくれ。……かなり情けない顔をしているに違いないんだ」
そういうと、彼は大きく息を吐いて、続けた。
「好きだ。。……」
強く抱きしめながら、まるで何かを確かめるように、真田も彼女の名前を呼んだ。
そして。
「……。……愛している」
真田は、顔を見せないまま、静かに、そして強く、の耳元でそう囁く。
その言葉に全身が沸騰しそうになりながらも、もまた、優しい声で返した。
「わたしも、大好きです。……弦一郎さん」
その後、の真田の呼び方は、やはりまた「真田先輩」に戻ってしまったけれど。
あの瞬間の甘い幸せな記憶は、二人が実際名前で呼び合えるようになる10年後までも消えずに残っており、無論それ以降もずっと二人の大切な宝物だったことは言うまでもない。
幸村様は二人のことが大好きだからからかい倒すわけで、二人もそれがわかっているから激しくは怒れません。
今回大分S気味の幸村様でしたが、彼なりの愛情表現なのです。
ちなみに、この後は二人で部室に戻ってトランプ大会の第2ラウンドです。
チーム戦でヒロインと真田はまたぼろ負けします。罰ゲーム、あるのかなあ…(笑