2学期の半ばの、とある平日。
職員の研究授業の都合で授業は昼過ぎで終わりとなり、しかも、職員の目が届かないからという理由で、今日は部活動が一切禁止となった。
部活もなく、丸々午後の予定が空くのは久しぶりのことだ。
と真田は、せっかくの機会だからと、待ち合わせをして一緒に帰ろうと約束していた。
部活のある日もいつも途中まで一緒に帰ってはいるが、時間が遅いため本当にただ「一緒に帰る」だけだったので、こんなに時間がある日に一緒に過ごせるのがとても嬉しくて、は今日の放課後をいつも以上に楽しみにしていたのだった。
――しかし。
が下足室で彼を待っていると、彼は慌てて、しかし何故か何も持たず手ぶらで現れた。
「先輩、お疲れ様です。……どうかしたんですか?」
自分の側までやって来た彼に、が声を掛ける。
すると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……すまん、。担任から仕事を頼まれてしまってな。帰れなくなってしまった」
そう言うと、本当にすまない、と真田はもう一度頭を下げる。
「あ、そうなんですか……」
は少し寂しげに沈黙したが、すぐに顔を上げた。
半日休みとなった誰もが嫌がりそうなこんな日に、頼まれたからと仕事を引き受けてしまう、真田の責任感の強いところも、は好きだったからだ。
それに、落ち込んで困らせるより、少しでも彼を支えられる存在でありたかった。
「私が手伝えるような仕事ですか?」
もし、自分も手伝って早く終わるなら、それに越したことはない。
そう思って言った言葉だったが、真田は首を振る。
「気持ちはありがたいが、力仕事なのでな。お前には少し荷が重いだろう。すまないな、気持ちだけ受け取っておく」
「そうですか、分かりました」
自分が手伝えればとは思うが、自分が手伝うことで逆に彼に迷惑をかける結果になるのでは意味がない。
しかし、手伝うことは諦めても、やはり一緒に帰ることは諦めたくはなかった。
「あの、それじゃ、終わるまで待っていてもいいですか?」
「お前がいいのなら、勿論構わんが……1時間ほどはかかると思う。いいか?」
「はい、用事もないですし、先輩と帰りたいですから」
はにかんだ笑顔では頷く。
真田は思わず目を細めたが、それをごまかすように小さく咳払いを零した。
「それでは、部室で待っていてくれ。できるだけすぐに終わらせて、迎えに行く」
そう言うと、真田は元来た道をまた慌てて戻っていった。
そんな真田を見送り、も部室へと足を向ける。
(何をして待ってようか。数学の宿題でもしてようかな)
そんなことを考えながら、は部室に向かう。
いつもなら、たくさんの生徒が歩いている部室棟の海林館へと向かう道も、部活のない今日は人も疎らだった。
は、ゆっくりと歩いてテニス部の部室の前まで来ると、部室のドアをノックした。
「ん、開いてるよ〜」
中から人の声がした。
この声は、切原だろうか。
「失礼します」
そう言うと、はゆっくり部室のドアを押し開けた。
その瞬間、目に飛び込んできた見慣れない光景に、は目を見開く。
真田を除いた全てのレギュラー陣が、ミーティングテーブルを囲みながらトランプをしていたのだ。
「さんか、いらっしゃい」
「……お前も来たのか」
レギュラー陣が、部室で、トランプ。
普段は部活以外で揃うこともそうそうあることではないから当たり前なのだが、こんな光景は初めて見たかもしれない。
「みなさん、何してるんですか?」
の問いに、丸井が手に持っていたカードをひらひらとチラつかせ、笑った。
「見りゃわかるだろぃ。トランプだ、トランプ」
「正確に言うと、ババ抜きっちゅーやつじゃな」
更に仁王がそう言いながら、丸井の持つ手札から1枚のカードを引き抜き、すぐに表情も変えずに柳生の方を向く。
それを柳生は無言で引き抜くと、眼鏡の中央を抑え、今度は隣にいた幸村の方を向きなおしながら言った。
「久しぶりにやると、なかなか面白いですよ」
どうやら、皆なかなか楽しんでいるようだ。
がその光景にくすりと笑うと、カードを引きながら幸村がに声を掛けた。
「さん、とりあえずそんなところに立ってないで、中に入ってきたら?」
彼に促され、は後ろ手にドアを閉めて、部室の隅に鞄を置く。
「みなさん、帰られないんですか?」
誰ともなしにが尋ねた言葉に、また幸村が答えた。
「うん、帰るつもりだったんだけどね。俺が部室に置いてたジャージを取りに来たら、赤也とブン太とジャッカルがやってて、楽しそうだったから参加してみたら、いつの間にやらこんなに人数が増えちゃったんだよ」
続け様に、柳も笑って口を開く。
「今日は部活ができないからな、たまにはこんな余興もいいだろう……上がりだ」
そう言うと、柳は幸村から引き抜いたカードと、自分の持っていた1枚のカードを合わせてテーブルの上に捨てた。
「うわっ、また柳先輩が一位っすか」
「さすが参謀じゃな」
「へえ、連続で1抜けなんですか……さすがですね、柳先輩」
赤也やの言葉に、柳はまんざらでもなさそうにフッと笑う。
「まあな。ところで、弦一郎はどうした?」
「あ、担任の先生にお仕事を頼まれたみたいで……」
柳の問いに応えながら、は彼の隣の開いている椅子に腰掛けた。
「で、さんは、真田を待っているわけだ?」
「ま、まあそんなところです」
は、内心照れつつもそれが表に出ないように取り繕いながら、幸村の言葉を認める。
それを聞いた切原が、にやっと意味ありげに笑った。
「へぇー、今日も一緒に帰るわけ?」
その言葉に、仁王もフっと笑う。
「そりゃ付き合ってるわけじゃからのう。毎日一緒に帰るくらいするじゃろ。のう、ブン太」
「まあ、他の奴なら当たり前なのかもしれねーけどよ。あの真田だからなあ……真田が女子と付き合って毎日一緒に下校とか、1年前の俺が聞いたら絶対に信じねーだろーな」
そう言って、彼らはわざとらしく笑った。
――また、いつものが始まった。
が真田と付き合い出してから、数か月が経過し、その関係は隠されることなく周知のものとなっていた。
テニス部のレギュラーメンバーは、真田とが付き合う前から惹かれあって不器用なやり取りをしていたのも、全国大会の最中に辛い思いをしていたのも、すべて一番近くで見てきただけに、今の二人の関係をとても微笑ましく思っていた。
誰よりも二人を祝福し、上手くいっている事を喜んでいるのも彼らだ。
しかし、二人とも恋愛事に関してはとても純粋で反応が面白いらしく、祝福するのと同じくらい、二人をからかって楽しんでいるのも確かだった。
「……もう、いい加減にしてくださいね」
頬を染めながら、は口を尖らせる。
それを見た幸村が、微笑ましそうにふふっと笑う。
そして、テーブルの上のカードを集めていた柳が、に声を掛けた。
「ま、それはともかくだ。どうだ? も次のゲームから入らないか?」
「はい、入れてください!」
断る理由など、あるわけがない。
は、笑顔で首を縦に振った。
――そして。
がゲームに加わってから、時間にして50分以上が経過した。
飽きもあせずババ抜きばかりを続け、ゲームはもう6巡目に入っていた。
「はい、俺もあがりっと!」
そう言うと、丸井は嬉しそうに持っていた手札をテーブルに投げ捨てる。
そんな丸井と対照的に、向かい側に座っていたの表情がどんよりと落ち込んだ。
「これで、の連続6敗だな」
「……はっきり言いますね……」
「事実は事実だからな」
テーブルの上のトランプを回収しながら、柳は表情も変えずに言う。
柳の淡々とした言葉は、に更なる追い討ちをかけた。
「……先輩達、強すぎです……」
残ったジョーカーを柳に手渡しながら、はため息をついた。
「つか、お前が弱いんだろぃ。たかだがババ抜きで、なんでそんなに負けられるんだ?」
「ここまで負けが続くと、ある意味すごいですね」
丸井と柳生の言葉にはむっとするが、事実なだけに何も言い返せない。
無言で睨みつけ、せめてもの小さな抵抗を示すと、そんなに仁王が飄々とした表情で片肘をつきながら言った。
「おぅおぅ。そんな顔しなさんなって。たかだかゲームじゃろ」
「そうですけど……やっぱりなんか悔しいです」
この先輩たちは、冗談抜きで何をやっても強い。
何をしても勝てる気はしないが、それでもこれだけ負け続けると、悔しくなるのも当たり前というものだ。
「私、トランプそんなに弱くないはずなんだけどなあ」
頬杖をつき、再度は重いため息をつく。
そんな彼女を見て、幸村が笑顔で口を開いた。
「うーん、もしかして真田がいないからだったりしてね?」
その名前を出された途端――ガタッと大きな音を立てて、の頬杖が崩れた。
「……ゆ、幸村先輩……!」
顔を上げると、幸村が気持ち悪いくらいの笑顔でを見ていた。
気付くと、隣にいる切原もニヤニヤしてこちらを見ている。
「なるほどねー。そりゃありえるっすね」
「き、切原くんまで……もう、またからかって!」
顔を上げると、は立ち上がって大きな声を出した。
「だいたい、今は真田先輩関係ないじゃないですか!」
「そうかな? やっぱり、彼氏が傍にいるのといないのとじゃ、心強さが全然違うんじゃないかな。トランプだって、精神面が強く影響するのはテニスと同じだからね。ねえ、柳」
「そうだな、そう言った点ではカードゲームとテニスには共通点があるといえるだろう。本当のことを言われたからといって立ち上がって大声をだすようなレベルでは、負けても仕方がないかもしれないな」
器用にトランプを切りつつ、柳もからかうようにそんなことを言う。
の顔は、どんどん赤く染まり始めた。
「も、もういい加減にしてください!」
が声を荒げる。
そんな彼女を見て、ジャッカルが同情気味に苦笑した。
「やめとけ、。お前がこいつらに口で敵うわけがない」
「う……」
まだ言い返したかったが、確かにこれ以上言い返したことろで倍になって返って来るだけなのは目に見えている。
悔しそうな顔のまま、は椅子に座りなおした。
「それにしても、その真田はまだ来んのか? もう一勝負できそうじゃな」
「そうだね。じゃ、もう一回やろうか。柳、配ってくれるかい?」
仁王の言葉に頷き、幸村は柳にカードを配るよう促す。
「了解した」
そう言うと、柳は流れるような手付きで、素早くカードを配りだした。
あっという間に、テーブルの上に人数分のカードの束が出来上がる。
仁王がそれを軽く指さして、に言った。
「、お前さんに一番に選ばしちゃるから、好きなの取りんしゃい」
「う〜ん……じゃあ、これで」
は促されるまま、祈るような気持ちで一つの束を手に取る。
――そして。
その中身を見た途端、の頬が一気に緩んだ。
「お、当たりかぁ?」
「みたいだな」
切原と丸井の声に、取り繕う様子もなく、がにんまりと笑う。
「今度もババ抜きでいいんですよね?」
明るい声でそう言うと、は手にしていたカードを2枚ずつセットにして捨て始めた。
8人と言う大人数でやっているために、ただでさえ手札の数は1人6〜7枚という少なさだ。
しかし、捨て終わったの手札は、なんと2枚まで減っていた。
「これは流石に、連敗脱出でしょう!」
無邪気な声でそう言うと、は嬉しそうに残り2枚になった手札を顔の側でちらつかせた。
そんなを横目で見ながら、他のメンバー達もそれぞれカードの束を手にとり、2枚セットで手札を捨てていく。
「ん〜どうやら1組だけじゃのう」
「私も、1組しかありませんね」
「俺は……駄目だな、全くないよ」
周りの様子を見ても、自分ほど手札の減った者はいない。
「これは私、1位も夢じゃないですね!」
勝利を確信したのか、そう言っては再度子どものような笑みを浮かべた。
そんな彼女を見て、幸村が頷く。
「……うん、確かにこれはさんが有利だね。とうとう連敗脱出かな?」
「へっへ〜。やっと先輩たちに勝てそうですね」
自信ありげに言うを、切原が少し馬鹿にするような目つきで見る。
「まあ、その状態で最下位になったら、才能の域だよな」
「ふむ、今回が最下位になる確率は7%といったところか――いやしかし、だからな。ある程度の補正が必要か」
「判んねーだろぃ。……だぜ?」
「有り得んことを何度も有りにしてきた奴じゃからのう。真田のことも含めてな」
もう、みんな言いたい放題だった。
それらの声に、はムッとして声を上げる。
「最下位は、流石にないと思いますよ」
「ほう? 自信たっぷりだな。しかし何事も、100%確実という事はないぞ」
「う……1位は無理かもしれないですけど……さ、最下位ってことは……」
ないと、思――いたい。
は、最後の言葉を飲み込んだ。
(確かに、この先輩達相手に、本当に勝てるかな……)
一瞬過ぎった不安を、はなんとか押し込める。
そして。
「だ、大丈夫だと思います!」
まるで自分に言い聞かせるように、わざと大きな声を出した。
――その時。
「じゃ、さんがもしこのゲームで最下位だったら、罰ゲームってことにしようか」
柳との会話を聞いていた幸村が、急に口を開いた。
笑顔の部長の突拍子もない一言が、の思考を一時的にストップさせる。
「……えーと……幸村先輩……?」
言葉の意味の把握が追いつかないに、幸村はおっとりとした笑顔で迫る。
「最下位にならない自信があるんだよね? じゃあ、いいよね」
この部長に、笑顔で「いいよね?」と聞かれて、「ダメです」と言える人などいるのだろうか。
は完全に固まってしまった。
この部長の有無を言わせない笑顔ほど、恐ろしいものはないのだ。
「……あの、罰ゲームって……」
「うん、ちょっとね。いいことを思いついたんだ。ああ、大丈夫。別に変なことじゃないから」
幸村が、とても楽しそうにふふっと笑う。
しかしその笑顔に、何かとても冷たいものを感じて、の顔が凍りつく。
「あ、あの、先輩、なんで私だけ罰ゲームが……」
「そうだね、それじゃ不公平か……じゃ、他のみんなも、これから7連敗したら罰ゲームということにしようか。勿論、俺もね」
「……」
――「これから」7連敗したら。
つまり、次の勝負で罰ゲームの可能性があるのがだけであることには、変わりがないのだ。
「そ、それって公平っていうんですか?」
「公平だと思うよ。7連敗で罰ゲームっていう条件は、みんな同じなんだし」
確かにそうなのだが、何か釈然としない。
が、公平でないとも言い切れず、何も言い返せなくなってしまったは、完全に沈黙した。
そんなの心中を知ってか知らずか、幸村はにっこりと笑みを浮かべた。
「良かった、これでみんな公平になったね」
その言葉に完全にフリーズしたを横目に、切原が幸村に問いかける。
「……ちなみに、罰ゲームの内容はなんなんスか?」
「うん、いい質問だね赤也。でも、まあお楽しみにしとこうかな」
しかしそんな幸村と切原の会話も、余裕のないにはもう聞こえていなかった。
(大丈夫、大丈夫……ま、負けるわけないから……。柳生先輩と仁王先輩はまだ4枚あるし、幸村先輩なんて1組もなかったから7枚まるまるあるわけだし……)
冷や汗を流しながら、自分にそう言い聞かせる。
「それでは、始めるとしよう」
その柳の言葉が、ゲームの開始を告げるホイッスル代わりとなった。
は、運命の2枚のカードを持つその手に、ぎゅっと力を込めた。