夏の大会や他校との合同合宿が終わり、忙しかった日々は終わりを告げた。
それに伴い、立海大附属中テニス部は、例年どおり練習のスケジュールをオフシーズンのそれへと移行させた。
放課後の練習は今まで通りだが、土曜の午後と日曜日がオフになるのである。
全てが終わるまではと、恋人らしい付き合いを一切して来なかった真田とにとっては、大会の終わりはある意味「始まり」とも言えた。
最初の休日はの家。
次は真田の家。
こういう関係になったからにはお互いの両親にきちっと挨拶をしなければならないという真田の言葉通り、順番に互いの家に足を運んだ。
そして、数週を挟んで次は3度目――外でする、初めてのデートだった。
とはいえ、とりあえずこの日にしようとは決めたものの、行き先も計画も全く決まっていなかった。
行こうと決めてから、毎日放課後の帰り道に話していたけれど、さっぱり決まらないままもう予定の日は明日になっていた。
「もう明日だな……どうする?」
「うーん……どうしましょうか……」
彼女が困ったような声で呟く。
こんな会話も、もう何度目だろう。
二人は苦笑して顔を見合わせた。
「なかなか、難しいな」
「そうですね。最近は特に部活ばっかりで過ごしてたから、どこかで何かやってるとか、そういう情報ほとんど素通りしちゃってました」
困ったように笑いながら、彼女が言う。
そしてまたうーんと考え込むを横目で見つめながら、真田は溜息をついた。
真田も、無い知恵を絞っていろいろと考えてはみたのだ。
遊園地、動物園、水族館。
彼女とならきっと楽しいだろうし、いつかは行ってみたいとも思う。
しかし、どこもお金が掛かるところばかりだ。こんな突発ではなく、しっかり計画を練って行くべきだろう。
いろいろと考えれば考えるほど、どん詰まりになる。
――こんなに無理して計画を立てなければならないくらいなら、いっそのこと延期するべきだろうか。
そう思わなくもないのだ。
けれど、どうしてもそれは口にしたくなかった。
恥ずかしいけれど、自分でも笑ってしまうほど、今は彼女と一緒に居たいのだ。
全国大会が終わるまで、本当にいろいろあった。
自分の都合で彼女をとても振り回したし、心にも無いことをたくさん言って、彼女を傷つけた。
正直な話、見捨てられても仕方がなかったとも思う。
それなのに、あんな仕打ちをした自分を好きだと、これからもずっと傍にいたいと言ってくれた彼女を、もう金輪際離す気はないし、許す限りの時間を共に過ごしたい。
とはいえ、それは自分の勝手な感情でしかない。
計画も立てられず、彼女を困らせてまで一緒にいたいなど、ただの我が侭だ。
思い悩んでいるうちに、とうとう彼女の乗る路線のバス停までやって来てしまった。
もう時間は無い。
――仕方ない、明日は諦めるか。
彼女と過ごす時間が無くなるのはとても寂しいけれど、思い浮かばないのだから仕方ない。
そう思い、真田は大きなため息を吐いた。
「……計画が決まらないのでは、どうしようもないな。すまない、明日は諦めよう」
「え……やめるんですか?」
「うむ――何も思いつかないのでは仕方が無いからな……」
そう口にしながらも、内心は未練たらたらだ。
本当は目的なんか無くたって彼女に会いたいし、話がしたい。一緒に過ごしたい。
けれど、それを口にしたら彼女が困るだろうと、真田はぐっと言葉を飲み込んだ。
「まあ、大会も終わったのだから、時間はこれからいくらでもある。また何か思いついたときにでも――」
真田がそう言い掛けた時だった。
自分の制服のすそが、何かにぎゅっと引っ張られたような気がして、はっと視線を落とす。
すると、俯いたが真田の制服を握っているのが見えた。
「ど、どうした?」
「あ、あの……今考えますから、ちょっと待ってください」
小さな声でそう言うと、は顔を上げた。
その表情は照れたように真っ赤に染まっている。
その様子に心臓がどくんと高鳴り、真田は思わず足を止めた。
「……ど、どうしたんだ」
そう問い掛けても、彼女はただひたすら何かを考えているようで、問いかけには答えない。
どうやら、行き先を一生懸命考えているらしかった。
優しい彼女のことだから、もしかしたら計画が出ないのは自分のせいだと思い込んでいるのかもしれない。
「こ、こんなこともあるだろう。そういえば、俺もやりたいことがあったからな、明日はそれをしようと思う。だから、気にしないでくれ」
彼女に気を遣わせないようにと、真田は作り笑いをする。
すると。
「じゃ、じゃあ、それを一緒にするわけにはいきませんか!?」
どこか必死そうな表情を浮かべ、は顔を上げた。
しかし、すぐにはっと我に返ったように、もう一度頭を垂れる。
「ごめんなさい……我が侭言っちゃって」
眉をひそめながら、は言う。
完全に気落ちした様子の彼女に、真田はおろおろとうろたえた。
「い、いや、我が侭では無いんだが」
「やりたいことがある」と言ったのは、彼女が余り気にしないようにとの思いからだったけれど、あながち嘘でもなかった。
確かに近々したかったことはある。とある書道展に行きたいのだ。
しかし彼女にとっては、そう楽しいことでもないだろうし、付き合わせるほどのことでは無い、と思う。
「お前を付き合わせるほどのことでは……」
「なんだって構いません。私はただ、先輩と一緒に居られればそれだけで……」
恥ずかしそうにしながらも、彼女は続けた。
「ごめんなさい、私……せっかく今週のお休みも先輩と会えると思ってたから」
一言を重ねる度に彼女の顔がどんどん真っ赤になってゆく。
しかしそれでも尚、彼女は言葉を続けた。
「ただ、先輩に会いたいだけなんです……理由なんか、なんでもいいんです。ごめんなさい……」
そう言うと、は恥ずかしそうに両手で顔を覆って俯いてしまった。
「……」
自分が思っていたことと全く同じ事を口にして、恥ずかしそうに縮こまっている目の前の小さな彼女を、真田はじっと見つめる。
彼女もまた、同じ気持ちだったのだ。
例え明確な目的は無くても、二人で一緒に居る、それだけでいい。
――彼女が、心から愛しい。
「ありがとう、」
真田は、そっと彼女の肩に手を置く。
びくりと肩が跳ねて、彼女が真っ赤な顔を上げた。
「俺も、同じ気持ちだ。ただ、お前に会いたい。例え目的が無くても、お前と一緒に時間を過ごしたい」
「先輩……」
「それでは、明日は俺の用事に付き合ってくれるか? 東京まで出るつもりなんだが、構わないだろうか」
苦笑して、真田は続ける。
「俺が尊敬する書道家が、東京で書道展をやっていてな、前から見たいと思っていたんだ。お前にはつまらないと思うが……」
「そんなことないです!」
真田の言葉を遮り、が叫んだ。
「あの、なんていうか……うまく言えませんけど、先輩の個人的な趣味に付き合わせてもらえるのって、先輩の生活に私を入れてもらえたような気がして、すごく嬉しいんです。詰まらなくなんて、絶対に無いです」
どこか必死そうに言い、は真田の目をじっと見つめる。
嘘偽りの無いその表情に、真田は思わず笑みを浮かべる。
「……そうか」
「はい。明日、凄く楽しみです!」
「ああ、俺も楽しみだ。明日はよろしく頼む」
「こちらこそ、明日はよろしくお願いしますね」
そう言い、二人はまた、嬉しそうに顔を見合わせた。
――そして。
次の日の昼頃、二人は地元駅で落ち合い、1時間ほど電車に乗って目的地まで出た。
東京の地は慣れなくて落ち着かなかったが、二人はまず、目的だった書道展へと足を運んだ。
会場となっているのは、小さな会館。
客はそこまで多くは無く、しかも自分たちのような年頃の者はほぼ皆無だった。
は少し緊張しながら、真田について中に入った。
彼に会うまで、書道というものに興味を持ったことはなかった。
どちらかというと「習字」と呼んだほうがなじみが深く、書写の時間に書くものという程度の認識しかない。
でも、真田に会って、彼が書く作品を見てから、書道という物に対して少し興味が涌いた。
とはいえ、彼が好きな物だからこそ、無条件で興味を持ってしまうだけなのかもしれないけれど。
「先輩、この人お好きなんですか?」
「そうだな、現代の書道家の中でもかなり好きな方だ。ダイナミックだが、部分部分がとてもきめ細やかで、静と動の使い分けがとても上手い」
そう答えながら、彼は真っ直ぐな瞳で作品を見ている。
その横顔に、思わずはどくんと胸を高鳴らせた。
こんな高尚な場で、作品ではなく彼の顔を見てかっこいいなあなんて思うのは不謹慎だろうか。
「……どうした?」
ふいに彼がこちらを向いて、はハッと我に返る。
「あ、い、いえ……かっこいいなあって思って」
――貴方が。
主語を濁したの言葉に、真田は頷く。
どうやら、飾ってある作品のことだと思ったらしい。
「そうだな。素晴らしい書だ。これに比べれば、俺もまだまだだな」
そう言って、真田が笑う。
しかし、飾ってあるたくさんの作品を書いた作者の人には申し訳ないけれど、は彼の作品の方が好きだと思った。
彼への個人的な感情が混じっていると言われれば、それは否定出来ないけれど――自分には、なんと書いてあるのかわからないほど達筆なこれらの文字よりも、彼の字のほうがあたたかみがあるような気がするのだ。
「……私は、先輩の作品のほうが好きです」
思わず、はそう呟いた。
すると、真田が苦笑しての方を見た。
「そう言ってくれる気持ちは嬉しいが、流石に俺の字はこれらと比べられるほどではないな」
「でも、私は好きなんですもん」
照れる余り、は視線を逸らしながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「勝手に思ってるだけだから、いいでしょう?」
言い終わってから、はそっと彼を見上げる。
すると、彼は恥ずかしそうに、赤く染まった頬を掻いていた。
「……ありがとう、」
そう言って、彼はどこか嬉しそうに笑う。
そんな彼にドキドキしながらも、はあることを思い出した。
いつだったか、切原が言っていたのだ。
それぞれの部員に合わせた言葉を真田が選び、それぞれに渡したことがある、と。
切原はそれを笑い話のように語っていたけれど、は彼らしいエピソードだと思いつつ、羨ましいとも思った。
いつか自分にも贈ってくれないだろうかと思いながらも、言い出す機会がないまま今日まで来てしまった。
今、この機会を逃す手はないと、は彼に話を切り出した。
「先輩、あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「あの、先輩が書いた書道の作品を、レギュラーの皆に贈った事があるって本当ですか?」
がそう言うと、ああ、と彼は苦笑した。
「少し前にな。しかし、余り喜ばれなかったようだが」
物の価値のわからん奴らばかりだ、と冗談めかして言いながらも、仕方なさそうに彼は苦笑を重ねる。
「今では持っているのかも怪しいな。赤也辺りは既に無くしていても驚かん。まあ押し付けた物だから、ずっと大切にしろとは言えんしな」
「……それ、私にも書いてもらえませんか?」
図々しいだろうかと思いながらも、はそっと彼を見上げて、恐る恐る言った。
すると、真田は少し驚いたように目を見開いた。
「……欲しいのか?」
彼の言葉に、無言でこくんと頷く。
すると、彼は少しの沈黙の後、こほんと咳払いをした。
「分かった。あんな物でよければ、近いうちにお前に贈ろう」
「ほんとですか!?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
嬉しさで顔を緩ませながら、は思わず大きな声を出してしまった。
しかしすぐに、ぱっと口を抑える。
――そういえば、ここはまだ書道展の中だ。
「……ごめんなさい」
「う、うむ、そろそろ出るか」
二人は顔を見合わせて、早足でその場を後にした。