天気予報では、確かに晴れだったのだ。
出かけるときも、特に雨の様子は無かった。
しかし――夏の天気は変わりやすい。
そして、昨今よく叫ばれているゲリラ豪雨という存在を忘れていたのは、完全に俺のミスだった。

Proof

デートの途中で、気づけばパラパラと降りだした小雨。
どこかで雨宿りをするかという話になったのだが、運悪くすぐに入れそうな喫茶店などは見つからず、ここから一番近いのが俺のアパートだったので、雨がやむまで一時的に避難するかということになった。
現在地から俺のアパートまでは大した距離もなかったから、この程度なら走ればそう濡れることもなく帰ることができるのではと判断し、俺はの手を引いて走り出す。
しかし、それが大きな間違いだった。
空は、あっという間に滝のような轟音を立て始め、俺たちを襲った。

「これはまずいな、急げ!」
「は、はい!」

視界が遮られるほどの雨の中、アスファルトを駆け抜ける。
どこか一時的に入れそうな軒下もなく、引き返すこともできずに、あっという間に全身がずぶ濡れになった。
完全に判断を誤ったと後悔してももう遅い。俺たちは、豪雨の中を必死で走り抜けるのが精一杯だった。

やっとのことでアパートにまで辿り着き、部屋の鍵を開けて、俺の部屋に飛び込む。
ちょうどその時、とうとう雷まで鳴り始めたが、それに巻き込まれなかったことだけが唯一の幸運だったかもしれない。

「ハァ、ハァ……す、すごい雨でしたね……ハァ……」

彼女のその言葉と同時に、背後の玄関扉が閉まる音がした。
しかし、外の轟音はドアの向こうで響いている。雨はまだまだ、止みそうにない。

「すまない、どこかで雨宿りでもすればよかったな」
「いえ、先輩のせいじゃないですよ。雨宿りできそうなところだって無かったし。それに、雷まで鳴ってるから、帰ってきて良かったと思いますよ」

ワンルームアパート特有の狭い玄関先で彼女とそんな話をしながら、俺は玄関の電気を付けようと壁に触れる。
時間的にはまだ日の高い時間帯で、電気を付けなくても全く見えないというほどではないが、こんな天気では、灯り無しで過ごすにはやや無理がありそうだ。

普段の記憶を頼りに玄関のスイッチに触れ、おもむろに押す。
とたんに、煌々とした光が頭上に輝いた。

「大丈夫だったか、

声を掛け、何気なく彼女に視線をやったその瞬間。
俺は――完全に固まってしまった。
そこにいた彼女は、まるで着衣のまま泳いだかのような状態で、はっきり言って直視できる状態ではなかったのだ。
白いブラウスとスカートは完全に意味をなしておらず、透けて張り付き体と下着の線をくっきりと浮かび上がらせていたし、濡れた髪は水滴を滴らせながら、妙になまめかしい色を放っていた。

――まずい。

俺は慌ててから視線をそらし、背を向けた。
心臓がどくどくと音を立てている。

まずい……これは非常にまずい……!
このような裸にも近い、いや下手をすればもっと刺激的な格好で、しかも誰も来ることのない俺の部屋で二人きりなどと――

心臓がどくんと鳴った。
俺の額から、珠のような滴が流れる。
これは先ほどの雨の水滴なのか、それともこの状況のせいで噴出した冷や汗なのか、自分でもわからない。
とにかく、大パニックに陥った俺の頭で今わかることは、今の状況が非常によろしくないことだけだ。

「先輩、あの……身体、拭きませんか。これじゃ風邪ひいちゃう……」
「あ、ああ、そ、そうだったな、ちょっと待っていてくれ!」

そうだ、俺は何をしているのだ。
変なことを考えるな。
とにかく今は体を拭くことが先決だ。
濡れたままの身体では、二人とも風邪をひいてしまう。

慌てて靴を脱ぎ捨て、俺は家の中に入って積んであったバスタオルをひっつかむ。
洗濯したばかりのきれいなものだと確認してから、に向かってそれを投げた。
――投げたのは、近づくのが怖かったからだ。

「あ、ありがとうございます」

ふわりと広がりながら彼女のもとに落下したタオルを両手でキャッチし、はそれを体に当て、水滴をふき取り始める。
俺もまた、再度彼女に背を向け、別のタオルで自分の身体を拭いた。

しかし、身体に滴る水滴は拭きとれても、着衣がすっかり水を吸ってしまっている。
これを着替えないことにはどうしようもない。
そしてそれは、も同じはずだ。
だが着替えさせようにも、当然だがここに彼女の着替えなど無い。
俺の服で着替えさせられるようなものはあっただろうか。
シャツくらいでいいものだろうか。
いや、身体の線がなるべく見えないような、厚手のジャージなどの方がいいか?
それから――下着、は。

そう思った瞬間、俺の頭が爆発した。
頭の中を下着姿の彼女が浮かび――それを何度も打ち消す。
ああ、駄目だ。
やはり危険だ、危険すぎる。
俺は理性を保つことができるだろうか。
そして――雨は、まだ止みそうにもなかった。



帰ってきてから、俺たちは玄関先からまだ一歩も動けていなかった。
風呂でも貸すべきなのか、着替えはどうしたらいいのか。
少なくとも、この濡れたままの着衣でいいわけはないことだけは分かるのだが、その先をどうすればいいのか分からない。

ただ言えることは、俺の身体の奥の奥で、何かが熱い。
身体はすっかり冷え切っているのに、確かに、“熱い”のだ。
これが意味するものがなんなのか、それを追求することは、どうしても怖かった。

駄目なんだ。
まだ、その一線を越えるわけにはいかない――絶対に。
俺はを、大切にしたい。

何かを抑え込むように、ぐっと掌を握りしめる。
――その時。

「……さむ……」

から、小さな声が漏れた。
はっと我に返り、彼女を見る。
バスタオルを肩から掛け、は玄関先でわずかに肩を震わせていた。

「す、すまない! 大丈夫か、!!」

慌てて、俺は彼女に近寄る。
バスタオル越しに肩に触れると、完全に冷え切っているのが伝わってきた。

――何をしているんだ、俺は!!

「と、とにかく中に入れ」

震えている唇は、少しうす紫色を帯びている。
完全に、体を冷やしてしまったのだ。
俺がとても情けない一人問答をしている間に。

自分が使っていたバスタオルも彼女に掛け、なるべく体の線が見えないように包んだ。
そして、肩を抱いてそのまま俺の部屋に招き入れる。

とにかく、どこかに座らせてやらなくては。
しかし、座らせられるようなところが、床か――ベッドくらいしかない。
俺が今住んでいるのは学生用の安いワンルームのアパートだから、余計なものを置くスペースがないのだ。
普段は全く困りはしなかったが、今はこの小さな部屋が疎ましくてしょうがなかった。

(こんな状態のを床に座らせるわけには……し、仕方ないか……)

、と、とりあえず、ここに座れ」

ベッドの上にタオルを引き、俺は妙に早口になりながら言う。
下心など無い。断じてない。
だから、変に意識したりせず、毅然とした態度でいればいいのだと、自分に必死に言い聞かせる。

「先輩……でも、それじゃベッド濡れちゃいませんか」
「かまうな、例え濡れても後で乾かせばいいだけのことだ。替えのシーツもあるから気にするな」

そう言うと、彼女は「ごめんなさい」と小さな声で謝りながら、そっと腰を下ろした。
途端に、タオルだけでなくその下のシーツも水滴を吸って、じんわりと染みが広がる。

「あ、やっぱり濡れちゃった……ご、ごめんなさい、先輩」

恥ずかしそうに眉をひそめ、は頬を染めた。

「き、気にするなと言っているだろう」

そう言いながらも、俺はなんだか彼女を直視できなくなって、背を向けた。
どくどくと、心臓の鼓動がどんどん速度を増していっているのが分かる。
と何を話せばいいのか、どう接したらいいのか分からなくて、俺はとりあえず新しいタオルを取り出すと、彼女に差し出した。

「ほ、ほら、タオルならまだまだあるから、いくらでも使えばいい」

視線をそらしながらバスタオルを取り換えるように促し、視線の隅でが新しいバスタオルをしっかり肩にかけたのを確認してから、俺はさらにもう一枚彼女の身体に掛ける。
やっと彼女の身体の線が隠れたが、濡れて冷えたはいつもとは全く違う雰囲気をまとっているような気がして、どうしても彼女をまっすぐに見られなかった。

「ありがとうございます。後で洗濯させてください」
「そんなことは気にしなくていい! は、早く拭け!」

そう言って、俺は何かをごまかすように、わしゃわしゃと彼女の髪をタオルで乱暴に拭く。
は、それに驚いたように目をぱちぱちと瞬かせた。

「わ……! せ、先輩、もっと優しく……!! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃいますってば!」
「うるさい、お前に任せていたら日が暮れそうだ」

わざとそんな軽口を叩いて、俺はさらにタオルで彼女の髪をかき混ぜるように拭く。
とにかく、今の妙な雰囲気を壊したかった。

「もう、先輩の意地悪」

がくすくすと笑う。

「お前が鈍くさいのが悪い」
「どーせ鈍くさいですよー」
「ほう、自覚があったとは驚きだな」

俺はくくっと笑う。
よし、これならば、なんとか乗り越えられそうだ。
そう思って少しほっとした、その時。
ふいに――彼女の首筋に、俺の手が触れてしまった。

「きゃ……」

ぴくん、との身体がはねる。
その小さな声と反応に、俺の心臓がどくんと鳴った。

「す、すまない!」

俺は慌てて手を放す。

「い、いえ、私こそすみません……ちょっと冷たくて、び、びっくりしちゃっただけで……」

の声が、上擦っている。
余程びっくりしたのか、頬が完全に紅みを帯びていた。

「……い、いや……」

俺もまた、彼女の首筋に触れた部分が熱を発していた。
雨に濡れて冷たいはずなのに、そこに神経が集中してしまったように、ものすごいスピードで熱さを増していく。

二人とも何故かじっと黙り込んでしまい、部屋の中には外の雨音だけが響いている。
俺の部屋は、再度なんとも言いようのない雰囲気に包まれてしまった。

――何も考えるな、無心になれ。間違えても、この雰囲気にのまれるな。

自分自身に必死に言い聞かせる。
しかし、先ほど触れてしまった一点が、そして彼女が発した小さな声が、俺の中で少しずつ意識を犯していく。
しっとりと湿った肌も、濡れて首筋にはりついた髪も、一瞬思わず漏らした可愛い声も――今の俺には、刺激が強すぎる――

ぐっと掌を握りしめた、その時。
ふと、俺の髪に何かが触れる感触がして、俺は、はっと顔を上げた。
いつの間にか――目の前に、彼女の手が伸びてきていた。
その手の先には、タオルが握られている。

「あの、先輩も拭かないと……先輩も、風邪引いちゃうから……」

そう言って、は真正面から俺の頭に手を伸ばしてきた。
俺の心臓が、思い切り跳ねる。

「い、いい! 俺は、あとで自分で……」

慌てて首を振り、彼女の手をはねのける。
すると、は少し悲しそうに、眉根を寄せた。

「……私に拭かれるの、いや……ですか?」
「い、いや、そういうわけではないのだが……」

そんなことは断じてない。
断じてないが、とにかく今はまずいのだ!!

しかし、俺の悲痛な心の叫びなど彼女に届くはずもない。
俺の心の内など露も知らず、は、ふっと表情を緩ませた。

「じゃあ、拭かせてください。私、先輩の髪触るの、好きなんです」

ほんのりと頬を赤く染めながら、そんな言葉を口にする。
なんということを言ってくれるんだ。
俺はこんなに必死で我慢しているのに――なぜ、そんなかわいい顔で、俺を刺激するようなことを言う。

俺が完全に固まっていると、はにこりと笑って再度手を伸ばしてきた。
腕を上げ、まくれあがったタオルの間から、うっすらとまた彼女の身体の線が見える。
すっかり張り付いたその布地は、もう衣服の意味をなしていない。
下着の模様すら、はっきりと目に映る。
そして、彼女が必死に俺の滴をふき取ろうと腕を動かすたびに、俺の目の前で彼女の胸のふくらみが揺れ動く。

見てはいけないと、何度も言い聞かせているのに。
これ以上は危険だと、何かが強く警鐘を鳴らしているのに――目が逸らせない。
俺の気持ちも知らないで、何を言い、何をしてくれるんだと、困惑が怒りにすら変わってきた。
勿論、八つ当たりだとも、分かっている。

なんだか妙に頭がぼうっとして、熱が俺の身体を駆け抜けていった。

――いっそのこと、全てはぎ取ってやろうか。どうせ着替えなければいけないのだから。

何を馬鹿な!

――もしかしたら彼女も、望んでいるのかもしれないだろう。俺の手で、その身体に触れられることを。

いや、それはお前の願望に過ぎない――身勝手で、傲慢な、ただの欲望だ!!

――例えそうでなくても、男の部屋に上がりこんでこんなあられもない格好で二人きりでいるのだ。覚悟くらい、出来ているだろう。

煩い、何の覚悟だ。黙らんか!!
抑えろ、抑えろ、抑えろ――!!!!

ぎりっと音が鳴りそうなほど奥歯をかみしめ、拳を握りしめる。
その瞬間――背後で、天を裂くような音が鳴り響いた。

「落雷? 近くに落ちたか」

はっとして俺が顔を上げたと共に、室内の灯りが色を失う。どうやら停電にでもなったらしい。
途端、が「きゃあ」と肩を震わせ――次の瞬間、俺の身体に抱きついてきた。

いきなり暗くなったので驚いたのだろう。
しかし、ずっと何かを我慢していたところに、彼女の柔らかい身体が押し当てられ、俺の頭の中は完全に真っ白に染まった。

もう。我慢など。できぬ。
悪いのだ。この雨が。落雷が。暗闇が。――そして、一人の男の前で何の警戒もない、無防備なお前が。

何も考えられないまま、俺は抱きついてきたの身体を、力を込めてぐっと抱きしめ返した。