夏の朝のHush Pudding 〜Assorted Happiness!

は、ふわふわと宙に浮きながら横たわっていた。
まるで天国の中にいるような、気持ちのいい、不思議な感覚。
幸せだなあ、なんて思いながら、傍に浮いていた雲のような綿のような塊を捕まえ、その身に引き寄せる。
感触が気持ちいい。
もっとその気持ちよさを味わいたくて強く抱きしめると、それは「ふわふわな塊」ではなく、誰かの身体になっていた。
思わず顔を上げると、それは他でもない大好きな真田の姿で――いつの間にか真田が側にいて、の体をぎゅっと抱きしめてくれていた。

――わ〜真田先輩だ〜!

誰もいない不思議な空間だから人目を気にする必要もない。
は、そのまま真田にすべての身体を預ける。
抱きしめ合うだけで、もっと幸せな気持ちになった。
やわらかい。気持ちいい。不思議な感覚だ。

「真田先輩、大好き……」

思わずつぶやくと、彼も何か言いたげに口を開く。
しかし声は聞こえない。
その代わりに耳に聞こえてきたのは――単調な電子音だ。

ピピッ
ピピッ
ピピツ

次第に大きくなる音に合わせて薄ぼんやりと世界はにじんでいき、やがてその世界は、真っ白に染まった。

「……あ、れ?」

単調な音が響く中、ゆっくりと体を起こした。
辺りを2,3度見渡してみる。
見慣れた自室ではない。ここは――ああ、そうだ。合宿所だ。

(そういえば、昨日から皆で合同合宿に来ていたっけ……)

そう気づいた瞬間、腕に握っていた気持ちのいいものの正体――ふわふわの布団を手放し、慌てて枕元に置いていた携帯のアラームを止める。

ふう、と息を吐いて大きく伸びをする。
時間はまだ早朝の5時過ぎ、同室のはまだ寝ているようだ。
一応この時間にアラームを鳴らすことの許可は取っていたが、とりあえず起こさずに済んだようで、はほっとして胸をなでおろす。

――そういえば、さっきの夢。
大好きな彼の夢を見て、夢の中で抱きしめてもらってしまった。
なんだか、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになり、そんなどうしようもない気持ちを抑え込んで四散させるように再度布団をぎゅうっと握りしめたが、それどころではないことを思い出した。
もう一度息を吐き、ベッドから降りると、今しがたぐちゃぐちゃにしてしまった布団を綺麗に整える。
合宿所とはいえ、まるでホテルの部屋のような設備で、ベッドも使われている寝具も一級品だった。

(本当に贅沢だよね……)

流石あの跡部の所有する合宿所だ。
昨日合宿が始まってから、その豪華さに一日で何度感心したか分からない。
それはだけでなく、氷帝学園の選手以外は皆そんな感じではあったけれど。

布団を整え終わると、は今度は自分の支度を整えた。
手洗いを済ませ、洗面用具を持って部屋備え付けの洗面室で顔を洗い、活動用の動きやすい服装に着替えると、少し念入りに髪を梳かす。
そして、鏡に向かってささっと自分の姿かたちのチェックを重ねると、まだ寝たままの親友を起こさないように気を遣いながら、急いで部屋を飛び出した。

まだみんな寝ているだろうからと極力足音を立てないように、それでも出来る限り急いで廊下を走る。
時間は早朝の5時15分頃になり、窓の外はもうすでに日が昇り始めている。
しかし朝食の時間は7時からということもあり、1時間以上もある現在、やはりまだほとんど誰も起きて来てはいなさそうだ。

――予想通りだ。これなら、きっと。

靴を履き替え、外に出る。
まだまだ夏の真最中とはいえ、早朝のこの時間はまだ空気がじとりとしておらず、心地よさすら感じた。

目的地が近づくにつれて、鼓動がどんどん早くなる。
練習用として開放していると言っていた幾つかのコートのうち、彼が利用する予定だと言っていた北コート。
そのフェンスが見え、コートの中に見慣れた一人の人影が姿を現し――の心臓は、もう痛くなるほど早鐘を打っていた。

少しずつ、スピードを減速する。
コートの中では、彼が――真田が、既にボールを使って打ち込みを始めていた。
そう、の目的は、早朝練習をする真田の手伝いをすることだったのだ。

一人コートに立ち、真剣なまなざしで、ひたすらサーブを打ち続けている。
その姿を観ていると、それだけで胸がいっぱいになって、なんだか声が掛けられない。

合宿中は4時に起きて早朝練習をすると聞いたとき、自分も起きて付き合ってもいいかと尋ねたら、無理な早起きをすることを心配してくれたものの、どこか嬉しそうに許可をしてくれた。
ただ、普段起き慣れていないのに4時はダメだと、体のことを考えてせいぜい5時半くらいからにしろと言われたのだが。
他人にも厳しいと言われがちだが、本当にキャパオーバーするような無理は絶対にさせないのだ、彼は。

(ああ、大好きだなあ……)

真面目に一人で練習をしている彼を見ていると、むしろ自分の存在が邪魔になりそうな気すらする。
彼なら、手伝いなどなくても充分一人で効率のいい練習をこなせるだろう。
ここで黙って見ていた方がいいだろうか、と思い始めたその時。

「……? いるのか?」

彼が、を目に留めた。

「おはようございます、先輩」
「おはよう。無事、起きられたようだな」

真田は手を止めて、ベンチに置いてあったタオルを手に取ると、無造作に汗を拭いた。
その汗の量を見ていると、もう既にかなりの練習を終えているらしいことがうかがえた。
この合宿、彼は遊び感覚などではない。真剣に取り組んでいるのだ。
それを痛感させられて、彼に会うことだけを目的に早起きした自分がなんだかとても恥ずかしいものに思えた。

「……どうした? 入ってこないのか?」
「入っていいですか? ……お邪魔になりませんか?」
「邪魔に? お前が?」

目を瞬かせ、真田はぽかんとした顔をする。
そして。

「なるわけがないだろう」

そう言うと、馬鹿なことを言うなと言わんばかりに、彼は他人には見せないような顔で笑った。
その表情にまた胸を締め付けられ、思わず胸の前でぎゅっと掌を握る。
そして、はおずおずと扉を開けてコートの中に足を踏み入れた。

「おはようございます。朝から精が出ますね」
「早朝は気温も上がりきっていなくて活動しやすいからな」

の言葉に答えながら、彼はベンチに置いていたスポーツドリンクを口にする。

「先輩は、何時からやってるんですか?」
「俺は4時半からだ。ストレッチとランニング、軽い筋トレを終えて、先ほどやっとラケットを握ったばかりだな」
「……ずっと、お一人で?」
「いや、ランニングの時は青学の海堂が少し一緒になった。あいつは早朝トレーニングはラケットを持たずランニングのみのようだったから、そこで別れたが」

その言葉に、は少しホッとして胸を撫で下ろす。
知る限り青学の海堂は冷やかしたり言いふらしたりするようなタイプではないとは思うけれど、それでも人の目があるとぎこちなくはなってしまうかもしれない。
それに、二人きりになれる時間はとても貴重だから、やはり可能であるなら、あわよくば彼と二人きりの時間を過ごしたい――

(こらこら! 先輩は真面目に練習してるのに、何考えてるの!!)

思わず浮かんでしまったよこしまな思いを心の中で叱咤し、はぎゅっと両の掌を握りしめる。
そして、改めて顔を上げ、彼に向き合った。

「じゃあ、今から私に手伝えることはありますか?」
「ああ、ならば、球出しをお願いできるか?」
「はい!」

良かった、手伝えることがありそうだ――そう思いながら、は笑顔で大きく頷いた。

それから、二人は延々と打ち込みの練習を始めた。
ほぼいつもの部活と変わらない基礎の練習メニューの一部だったけれど、普段はマネージャーとしての他の仕事や、一般部員の練習メニューの手伝いがあり、なかなか真田だけのサポートをすることはできない。
むしろ、彼は一人で何でもこなしてしまう人だから、部活の時にこんなに長く彼に関われる時間などほぼないと言ってもいいかもしれない。
勿論それが当たり前で、それを悲しく思ったことなんてないけれど。
しかし、こうやって真田一人につきっきりになり、彼だけを見つめ、彼だけのために動ける今この瞬間が、はなんだかとても新鮮で、そしてとても贅沢な時間に思えた。

時間を忘れて、二人は延々と練習に打ち込む。
気づけば、いつの間にか30分以上が経過していた。

「……わ、こんな時間だ。すみません先輩、もうちょっとしたら、私朝食の手伝いに行かなきゃです」

コートに設置してあった時計を見上げ、が言う。
6時20分頃からは、朝食の準備が始まる
朝食の手配は専用のスタッフがいたが、たちお手伝いメンバーも交代で手伝うことになっていたのだ。

「そうか、もうそんな時間か」
「はい。先輩もそろそろクールダウンに入りますよね。私、散らばったボール回収しますね」

今から回収を始めればちょうどいい時間になるだろうと、はボール籠を手にする。
すると真田がそれを制止した。

「いや、球拾いはあとで俺がするから、お前は少し休むといい。起きたばかりで、30分以上ほぼノンストップで付き合ってくれただろう。疲れているはずだ」
「大丈夫ですよ、先輩コントロールすごいですし、フェンス超えて飛び出して行ったりもなかったですから、すぐに集め終わります」
「いやしかし」

真田は止めるが、は頑なに首を振り、そのままボールを拾い始める。
その様子を見た真田は、呆れたように苦笑しながら、自身も散らばったボールに手を伸ばした。

「全く頑固だな、お前は」
「だって、私、いまちょっと後ろめたいので……最後までちゃんとお役に立って戻りたいんです」

そう言いながらも、の手は止まらない。
むしろ、今の自分の言葉をごまかすように、ボールを拾う動作が早くなった。
しかし反対に真田は手を止め、目を瞬かせる。

「……後ろめたい? 何故だ? お前はこんな早朝から俺の練習に付き合ってくれたというのに」

予想もしていない言葉が飛び出したのだろう、真田は目を丸くしての後姿を見つめた。
もそんな彼の顔に一度視線をやったが、すぐに顔を逸らしてしまう。
そして、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、「怒らないでくださいね」と前置きをすると、少し言い辛そうに口を開いた。

「私、実は、あの……朝早く起きれば、誰にも邪魔されずに真田先輩と一緒に過ごせるなって、そんな打算があったんですよね……。でも朝起きて来てみたら、先輩はいつも通り頑張って練習してて、めちゃくちゃ真剣で……。なんだか申し訳なくなっちゃって……」

ボールを拾いながら、は続ける。

「一応お手伝い始めてからは余計なこと考えないようにって思って頑張ったつもりですけどね。それでも、やっぱり先輩と二人っきりでいるのに意識しないとか無理でした。いつもの部活に比べれば絶対身が入ってなかったと思います」

嘘偽りのない事実だが、恥ずかしくないようにと言葉を上塗りするほどどんどん何故か言葉が暴走していく。
しかし今更ごまかすことも止めることも出来なかった。
訳が分からなくなりながらも必死で口を動かすにつれて、の顔はどんどん熱くなる。

「なんかもう、真剣な先輩見てるだけで私頭がのぼせちゃうのかな。あ、あの、他の先輩達いたらなかなか先輩のこと見てることも出来ないじゃないですか、あの先輩たち目ざといですし。だからなんかずーっと二人きりで先輩見放題っていうのがすごい贅沢な時間だなーとか思っちゃったりっていうか……そういうことを考えちゃってですね、先輩が真剣に練習してるのに、こんなよこしまなことばかり考えてるのが後ろめたいというか、恥ずかしいというか、なんというか」

そこまで言うと、今吐いたすべての言葉をごまかすように、はははっと大きな声で笑う。
頭が真っ白になり、目を白黒させつつ、やっとのことで口を閉じると、途端に二人の間が静かになった。
その静けさが痛くて、どうしたらいいのか分からない。
は、ただひたすらボールを拾っては籠に投げ入れ、その音で沈黙をかき消そうとした。

――ああ、しまった。正直に言い過ぎた。これ、先輩呆れてるかもしれない。

そうは思っても、今更出した言葉を引っ込めることなどできない。
ずっと背を向けているから彼がどんな顔で何を思っているのか、想像することも出来ない。
こんなことを口にするのは初めてではないから、今更自分のこの類の言葉で彼が引いているとは思わないが、自主練に付き合うと言いながらこんなことばかり考えている自分をちょっと呆れるくらいはしているかもしれない。

駄目だ。彼の顔が見れない。
もうこうなれば早くボールを拾いきって、この場を立ち去ろう――そう思ったその時。
真正面の光が遮られ、は思わず顔を上げる。
すると、いつの間にか目の前に真田が立っていた。
彼はそのまますっと膝をついて腰を下ろし、顔は伏せたまま、その大きな手をの手の甲に重ねる。
そして、そのまま優しく力を込めた。

「せ、先輩……!?」

急に握りしめられた手に、そしてそこから伝わってくる彼の体温に、の感情が一気に沸騰した。
彼のいきなりの行動が、とても思いがけないものだったこと。
そして、隣にいて手を繋いだことはあっても、彼からこんな風に手を握られたことは、初めてだったこと。
触れているのはたった一か所なのに、まるで抱き合っているかのように心臓が早鐘のようにうるさく鼓動していた。

少しの間彼はただ手を握っていたが、ややあってから、大きく息を吐いた。
――そして。

「……お前は、ひ、一つ勘違いをしている」

手を握ったまま、らしくない小さな声で、彼は言葉を紡ぎ始めた。

「俺が、この時間を、何とも思わずにいつも通り練習出来ていたと、お前は思っているようだが。決して、そんなことは、ない」

何と言えばいいのか分からず、迷いながら口にしているようで、彼の言葉は、途切れ途切れだ。
はその声に、何も言わずに耳を傾けた。

「俺だって、お前と二人でいられることを……、その、なんというか、嬉しくないわけがない、というか、だな。意識しないわけがないというか……」

そう言って、彼は何かをごまかすように、ごほんと喉を鳴らす。
そして、ややあってから、覚悟を決めたように言葉を吐いた。

「一切の邪魔が入らず、お前と二人でいられたこの小一時間、俺が内心どんなに……う、浮かれていたと思ってるんだ」

浮かれていた。
あの生真面目な、彼が。

は目を瞬かせて、顔を伏せたままの真田を見る。
表情は分からないが、帽子と髪に隠れてかすかに見える耳の端が、とても真っ赤なのは分かった。
それはきっと、彼の必死の告白が、本心であることの証だろう。

「……そうだったんですね」
「ああ……感情を表に出さないよう、それはもう、必死だったんだぞ……」

そう言って、彼はの手をつかんでいない方の手で、帽子のつばをぐっと下げる。
その仕草は、無意識に照れ隠しするときの彼の癖だった。
思わず、は笑みが零れた。

「ふふ、一緒ですね」
「……そういうこと、だろうな」

は微笑い、真田は照れ臭そうな声を絞り出す。
そうしているうちもずっと重ねたままの二人の手は、双方、とても熱を帯びていた。
その熱が伝わり合うことに恥ずかしさも感じるけれど、それを放したいとは二人とも微塵も思わなかった。
むしろ、その熱さが心地いい気すらしてしまう。
お互い、この時間がずっと続けばいいのにと思いながら、そのままの時間が尽きるまで、二人はただ手を重ね合っていたのだった。