焼き菓子と墨

業間休憩中に、と会えた。
前の時間の授業が、二人とも特別教室を使用する授業だったらしく、特別教室が並ぶ3階の廊下で、休み時間にたまたまばったり会ったのだ。
突然の遭遇に、お互いとても驚いた顔をして固まってしまったが、友人たちも気を利かせて(くれたのだろう、多分)先に教室へと帰ってしまったし、せっかくだったので、そのまま屋上に出て話をすることにした。
俺達が今いる1号館には屋上庭園があるが、そちらには人が多いだろうから、人がほとんどいない場所を選んで、俺達は話を始めた。

「気付かなかったけど、さっきの時間、近くにいたんですね。……なんだか嬉しいな」

照れたように頬を染めながら、が笑う。
立海大はただでさえ大きな学校だ。
学年が違えば、ばったり廊下で会うということも滅多にあることではない。
思わぬ場所で会えた嬉しさで、俺の頬も勝手に緩んだ。

「うむ、こういうことは、なかなか嬉しいものだな」

そう言って、俺は彼女に笑顔を向ける。
その時――ふいに、なんだかいい匂いがした。
俺は、思わずくんくんと鼻を鳴らす。
やはり、とても甘いような、――そう、まるで焼き菓子のような匂いがする。

「……もしかして、調理実習でもしていたか?」

思わず問い掛けた俺に、彼女は目を瞬かせた。

「あ、はい、そうです。え、わかっちゃいました?」

不思議そうに目を瞬かせる
その可愛らしさに、俺はまた、くすりと笑った。

「ああ、お前から焼き菓子のいい匂いがした」

「え、そ、そうですか?自分じゃ判らなかったです」

そう言って、彼女は手の甲を自分の鼻に近づけて、くんくんと匂いをかぐ仕草をする。

「匂いというのは、自分では気が付かないものだからな」

ははっと笑って、俺は言う。
すると。

「そうですね、先輩もですもんね」

は、そう言ってくすくす笑った。
――俺も?

「どういう意味だ?」

思わず尋ね返す俺に、は得意そうに指を立てて、言った。

「先輩から、墨のとてもいい匂いがします。――書写の授業だったんじゃないですか?」

そう言って、は俺の胸の辺りに顔を近づけ、くんくんと鼻を鳴らした。
唐突に大胆なことをする彼女に、胸の鼓動が一気に速度を上げる。
思わず俺が動きを止めると、彼女は自分の行動に気付いたのか、はっとしてその動きを止めた。

「あ、ご、ごめんなさい」

顔を真っ赤にして、彼女は身体を引く。
耳まで真っ赤になっているに、俺は思わず笑みが零れた。

「……正解、だ」

そう言って、俺も自分の腕の辺りの匂いを嗅いでみる。
言われてみれば、墨の匂いがするような気はするが――。

「やはり、自分では気が付かないものだな。余りわからん」

「で、でしょう?」

未だに赤い顔のまま、は何かをごまかすように、大袈裟に笑った。
そして、気を取り直すように顔を上げて、彼女は続ける。

「最近、先輩の書いた作品、見てないなあ。先輩、何か見せてくれませんか?」

「ああ、先ほど書いたものは提出してしまったが、他のもので良ければ構わんぞ」

「わあ、やった!約束ですよ!!」

俺の言葉に嬉しそうに頬を緩めると、は何かを思いついたように「そうだ」と声を上げた。

「先輩、さっきの時間の調理実習のクッキー、3時間目終わった頃に焼きあがるんです。昼休みにでも部室に持っていくので、交換ということにしませんか?」

そう言って、彼女はまた楽しそうに笑う。
ふむ、交換するのは構わんのだが――部室、か。
少し考えて、俺は口を開いた。

「……いや、その条件は飲めんな」

「え、なんでですか!?」

が、慌てて目を見開く。
そんな彼女を見て、俺はまた、くくっと笑った。

「部室では、万が一他の奴らが来ていたら、食い尽くされてしまうだろう。後でこっそり――そうだな。場所はまたここで、俺にだけくれ。それならいい」

俺の言葉に、はぱちぱちと目を瞬かせる。
しかし、すぐにくすりと笑った。

「先輩、クッキー独り占めですか?子どもみたいですよ」

「子どもで結構だ。俺は、全部独り占めしたいんだ。お前の作る菓子も、……お前も、全て」

そう言って、俺は少し背をかがめ、の顔を覗き込む。
すると、甘い香りが、風に乗って再度俺の鼻をくすぐった。

「やはりいい匂いがするな。丸井達は鼻が利くから、すぐに気付きそうだ。もし気付かれたら煩くてかなわんからな、この匂いも落としておいてくれ」

「あ、は、はい。あの、匂いは、えと、清涼スプレーとかで消せると思うので、消しときます」

の顔が、また赤く染まった。
……からかうつもりで言ったのだが、真面目に受け取られてしまって、俺はまたくくっと笑う。
すると、彼女はそれに気付き、真っ赤な顔のまま、ふいっと明後日の方向を向いた。

「やっぱ、先輩にはあげません!」

そう言って顔を背ける彼女に、俺が苦笑して謝罪の言葉を口にしていると、そこでチャイムが鳴った。

「わ、鳴っちゃいましたね」

「そうだな、戻らねば」

俺達は顔を見合わせ、くすりと笑う。

「……それじゃ、クッキーもって、昼休みにまたここにきますね」

「ああ。楽しみにしている」

そう言って、俺達は数時間後の逢瀬を楽しみに、慌てて屋上を後にした。