との関係が、副部長とマネージャーと言う関係から、恋人同士という少し特別なものになって、もう1月以上が経つ。
……と言っても、俺と彼女の関係はそう劇的に変化したわけではない。
付き合うといっても、何をしたら良いのか判らなかったし、正直なところ今までと何も変わらない関係が続くのみだった。
しかし、その関係がほんの少しおかしくなったのは、最近の話だ。

先日、休日練習のついでに彼女に宿題を教えると言う名目で、2人きりになったことがあった。
断じて下心があったわけではない。
ただ、他のレギュラーメンバーに知られると、どうせからかわれて宿題どころではなくなるだろうという理由からだったのだが――2人きりになったことで、俺達はなんだか妙に意識してしまい、結局宿題どころではなくなってしまったのだった。
しかもあろうことか、俺と彼女はあと少しで――。

……あの時のことは、思い出すだけで顔から火が出る思いだ。
あれから少し経ち、お互いあの時のことに触れることは無かったけれども、あれ以後彼女と2人きりになると、意識をしてしまうようになった自分がいる。
同じように、彼女も少し意識をしてしまっているのか、俺と彼女の間にはあれからほんの少しだけ「隙間」が出来た。
隣を歩いていても、手も肩も触れない一定の「隙間」が。

別に彼女と距離を取りたいわけではないのに、俺には何故かこの「隙間」を埋めることは出来なかった。
この隙間を埋めるということは、つまり「彼女に触れたい」ということで、そんなことを考えてしまう自分がなんだかとても恥ずかしいものに思えたからだ。
それに、こんなことを考えてしまっている俺を、彼女はどう思うのか――何よりそれが怖かった。
だいたい、あの一件を、彼女自身はどう思っているのかも判らないのだ。
そんなわけで、俺にはこの隙間を埋めることも、彼女の気持ちを確認することもできず、2人の仲は微妙にギクシャクしたものとなってしまっていたのだった。

zero

ある日の、昼休み。
今日の放課後の練習メニューを確認しようと、俺は部室に立ち寄った。

「失礼する」

そう言いながら部室のドアを開けた、その瞬間。

「あ、真田先輩」

そんな可愛らしい声とともに、俺の目にが飛び込んできた。
思わず、俺の動きが止まる。

なにやら書類ケースを探っていた彼女もまた、何かを気にするように一瞬手を止めた。
やはり、俺達の間には少し微妙な空気が流れているようだった。

「えっと……どうしたんですか?」
「い、いや、放課後の練習のことで、ちょっとな」

そう言いながら、俺は部室に入り、後ろ手にドアを閉める。
緊張はするが、勿論彼女の顔が見れたことが嬉しくないわけはない。
高鳴る胸を軽く抑えて、俺は練習予定の書かれたホワイトボードの前に移動する。

「お前はどうしたんだ?」
「あ、私は今度の練習試合の書類を探しに来たんです」
「そうか。昼休みだというのに、ご苦労だな」
「いえ、気になっちゃっただけです。他にすることもなかったですしね」

そう言って、は笑う。

「でも、見つからないんですよね……どこに行ったのかなあ」

そう言いながら、彼女は書類ケースを探り続けている。
当初の目的だった、放課後の予定の確認を終えた俺は、ホワイトボードから離れて、書類を一緒に探すことにした。

部室で2人きりという状況が、嫌でもいつぞやのことを思い出させる。
意識しないようにと言い聞かせながら、俺はその書類探しに意識を集中させた。

そういえば、昨日確か赤也の奴が練習試合の場所を確認する為に、見ていたような気がするが――
だとしたら、あいつのことだ。
書類ケースの中から出したまま、きっとどこかに放置しているに違いない。
そう思って、俺はきょろきょろと部室内を見渡した。
すると、ミーティング机の上に、無造作に置かれている紙の束があるのが目についた。
怪しいと思い、俺はその紙の束に近づき、漁ってみる。

――あった。

いろいろなプリントや、スコアを書いた紙の間から、探していた練習試合の書類を見つけた。
やはり、赤也か。
あいつには、きつく言っておかねばならんなと思いながら、俺はそれを引っ張り出す。

、あったぞ」

俺が声を掛けると、彼女がくるりと振り向いた。

「あ、そんなところにあったんですか。先輩、ありがとうございます」

笑顔でそう言うと、彼女はゆっくりこちらに近づいてきた。
彼女との距離が少しずつ縮まる。それとともに、俺の心臓も高鳴りを増す。

しかし、ある一定の距離を置いて、の足は止まった。
やはりかと思いながらも、俺もそれ以上は動けない。
近づきたいのに近づけない、そんな自分を情けなく思いながらも、俺は紙の束を彼女に差し出した。
――そして。
彼女が同じように手を伸ばし、少し躊躇しながらその紙の束を手にした瞬間のことだった。

「――っ」

声にならないほど小さな声を上げて、彼女がその表情を歪める。
一瞬、落としそうになった数枚の書類を彼女は慌てて掴み、小脇に抱えると、書類を受け取ったその指先を、自分の顔の前に持ち上げた。

「……ったあ……」
「どうした?」

何が起こったのか判らなくて、に問い掛けると、彼女は利き手の人差し指の根元を反対側の手でぎゅっと握り締めながら、苦笑した。

「ちょっと、切っちゃったみたいです」
「何?」

その言葉に、俺は慌てて彼女の指先に視線をやる。
すると、彼女の小さなその指先に、一筋の赤い線が走っているのが見えた。
その赤い線の正体が、血だと認識した瞬間――背中にぞくっと冷たいものが走り、俺は思わずの手を取る。
その瞬間、彼女が驚いたように声を上げた。

「せ、先輩!?」

そんな声に構わず、切ったせいか熱を持っている彼女の指先を、握ったままじっと凝視する。
紙が走ったと思われる線の中央部からは、少しずつ溢れ出した血が、立体的な丸い玉を作り出していた。

「紙の端で切ったんだな」
「は、はい……でも紙に血はついていないですから」
「馬鹿者、そんなものよりお前の指だろう!……ちょっと待ってろ」

そう呟いて、俺は一旦その手を離した。
慌てて救急箱から絆創膏を取り出し、包装や裏の剥離紙を剥がしながらの元に駆け寄ると、再度片手で彼女の手首を掴む。
そして、もう一方の手で、俺は傷ついた彼女の指先に絆創膏を巻きつけた。

「ありがとうございます……すみません」
「いや、俺が傷つけたようなものだろう。本当にすまなかった、俺の渡し方が悪かった」

申し訳なさそうに言う彼女に言葉を返しながら、俺は絆創膏を貼り終えた。
貼り終えたばかりの絆創膏のガーゼには、既に少しずつ赤い色が滲み、浮き出し始めている。
その赤い色を見ていると、心が痛んだ。
俺が渡した紙の束で、彼女の指を傷つけてしまったのだ。
傷つけるつもりは勿論なかったが、馬鹿みたいに彼女との距離を意識するあまり、ちゃんと渡せなかったのだろう。
紙というものは時に非常に鋭利な刃物になるというのに、それを失念してぞんざいな渡し方をしてしまった自分が、とても情けなかった。

「本当にすまない」

そう呟いて、の手を掴んだまま、俺は頭を垂れる。
すると彼女が、その俺の顔を覗き込むように首を傾げた。

「あ、あの、先輩。大丈夫ですから気にしないで下さい。私の受け取り方が悪かったんです」
「……しかし」
「あの、本当に大丈夫です。この程度の傷、どうってことないですから……そ、それより、あの」

そこまで言って、の言葉が止まった。
一体どうしたのかと、俺は顔を上げる。
――すると。
俺と目が合った彼女の顔は、真っ赤に染まっていた。

「……手……あの」

――手。

その言葉に、俺ははっとして自分の手を見る。
そういえば、先ほどからずっと――俺は彼女の手を握りっぱなしではないだろうか。

「す、すまない!!」

慌てて、俺はその手を離す。
さ、先ほどから、俺は両手でベタベタと彼女の手やら指やらを握りまくっていたのでは……!!

「本当にすまない、し、しかしだな、俺は手当てをするつもりでだな……!!」

言い訳を重ねながら、顔がどんどん熱くなる。
しかしケガの手当てとはいえ、2人っきりの部室で、彼女の手をぎゅっと握り締めていた自分の行動がなんだかとても恥ずかしく思えて、俺の心臓はどんどんその速度を増した。

「本当に、下心などがあったわけではなくてだな……」

何を言っているんだ、俺は。
こんなことを言えば言うほど、逆に怪しいというものだ。
駄目だ、完全に頭が混乱してしまっている。
自分が情けなくなり、熱くなったその顔を俺は片手で覆った。
それに、本当に下心は無かったのかと聞かれると、正直言葉に詰まる自分もいる。
例え先ほどはその気持ちが無かったとしても、ずっとこの「隙間」をどうにかしたいと思っていたのは確かなのだし、そもそも下心があろうとなかろうと、彼女の手をベタベタ触ったことには変わりがないのだ。

「すまない、何を言っても言い訳にしかならんな……無理やり、すまなかった」

そう言って、俺は頭を垂れた。
――すると。

「ち、違うんです!」

彼女の、少し焦った声が俺の耳に届いた。
俺が顔を上げると、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めた彼女が目に入る。

「あ、あの……ごめんなさい、別に、私……あの、先輩に手を触られて、嫌だったとかじゃなくて……ちょっと、その、照れちゃったというか……」

あたふたと無意味に手を動かしながら、は言葉を続ける。

「ていうか、むしろその……う、嬉しいとか思ってるかもしれなくて……先輩の手、あったかかったし……って、やだもう私何言ってるんだろ、もう……」

は、そう言うと耳まで真っ赤になりながら俯いて、恥ずかしそうに両頬に抑えるように手を添えた。
その動作と言葉に、俺の心臓がどんどん高鳴りを増す。

「……嫌ではなかったか?」

思わずそんなことを聞いた俺に、彼女は俯いたまま、ものすごい勢いで首を両横に振った。

「先輩に触られるのが、嫌なわけないです……」

俺に触れられて嬉しいと、彼女が言った。
その言葉は、あっという間に不思議な感覚となって、俺の全身を支配した。
緊張感と、くすぐったさと、嬉しさと、そして目の前の彼女を愛しいと思う気持ちが、後から後から溢れ出してきて止まらない。
触れたい――にもっと、触れたい。
そんな想いを必死で自制して、俺はぎゅっと拳を握り締める。
その時、彼女が小さな声で言葉を紡ぎはじめた。

「この前のこと……覚えてますか? この場所で……その」

この前、この場所であったことといえば――ひとつしかない。
忘れるわけがないと思いながら、俺は首を縦に振る。

「――無論、覚えている」

思い出すと、やはり恥ずかしさが俺を支配する。
しかも、今まではこの話にはあえて触れないようにしてきたから、尚更だった。

「あの時は、その……すまなかった。決して軽い気持ちだったわけではないのだが……どうしても止まらなかった」

恥ずかしさをごまかすように、俺は頭を下げる。
――すると。

「謝らないで下さい! あ、あの――私、私あの時のことだって……」

彼女の言葉は、一旦そこで止まる。
ずっと俯いているから表情はわからないが、柔らかそうな髪の隙間から覗く耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。

「あんな風に終わってしまったこと……ざ、残念としか……思わなかっ……」

もう、それ以上は言葉が続かないのだろう。そこまで言って、は完全に言葉を紡げなくなった。

駄目だ。
こんな風に言われて、抑えていられる理性など持ち合わせているものか。
触りたい。もっと、彼女に触れたい。



小さな声で彼女の名前を呼びながら、自分の掌を握り締める。
そして、俺はその手を彼女に伸ばした。
未だ恥ずかしそうに自分の両頬を抑えて俯く彼女の、その左手の上に、俺は右手を重ねる。
その瞬間、の肩がほんの少し震えた。
俺は、空いていたもう一方の手も彼女に伸ばすと、両腕を彼女の首の後ろに回して、そのまま彼女の身体をそっと抱きしめる。
――2人の間にあった「隙間」は、この瞬間、消えてなくなった。

密着する彼女の身体から、温もりと、心臓の鼓動が伝わってくる。
それが、恥ずかしいような、心地良いような、不思議な感覚だった。
彼女に触れるというのは、こんなにも幸せなことだったのだなと、改めて思う。

「好きだ。お前が、好きだ」

そんな言葉を、俺は思わず零した。
すると。
彼女が、恐る恐る顔を上げた。

「……私も、先輩がどうしようもなく、好きです」

顔中真っ赤にしながら少し潤んだような目を俺に向け、彼女は消え入りそうなほど小さな声でそう言った。
お互い耳まで真っ赤なほど恥ずかしがっているのに、俺も彼女も、その視線を逸らせないまま、じっと見詰め合う。
そして――俺と彼女は互いに目を閉じると、そのままそっと唇を重ねた。





やがてゆっくり身体を離し、俺と彼女はほんの少しの距離を置いた。
やはり恥ずかしくて、お互いに言葉は掛けられなかったけれど、以前のような気まずい雰囲気と言うわけではなくて、むしろその余韻を味わっているような感覚に近かった。

しかし次の瞬間、昼休みの終了を告げる予鈴の音が鳴り響き、俺達は慌てて顔を上げる。

「時間のようだな」
「そうですね、早く戻らないと!」

そう言って、俺達は部室の外に出る。
そして、俺が部室の鍵を締めていたその時、彼女がぽつりと呟いた。

「駄目、次の時間、絶対授業にならない……」

俺は、ふと視線を彼女に向けた。
恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め、そんなことを言う彼女が可愛くてたまらなくて、思わず俺は咳払いをする。
そして。

「たるんどる……と言いたいところだが、俺も、だ」

俺も、そう零す。
すると彼女がその赤い顔を俺に向け、俺達は笑い合う。
そして、一緒に部室を後にした。

――校舎へと向かって歩く俺達の間には、もう「隙間」はなくなっていた。

「ふたりきり。」の続編、初キス話でした。
季節的には2学期開始すぐくらいを想定しています。