「先輩、明日、練習前にお時間ありますか?」

そう聞かれたのは、今日の帰り道の話だ。
明日と言えば、日曜練習の日だ。
練習は午後からだったが、練習開始時間より1時間ほど早めに来て会ってもらえないかと彼女は言う。

「別に構わんが、いったい何の用事だ? 宿題でも見て欲しいのか?」

何気なく俺が問うと、彼女は苦笑して首を振った。

「宿題とか勉強じゃないんですけど。あの、理由はちょっと、内緒にさせて欲しいんです」
「内緒?」
「あの、はい、明日まで内緒にしたくて……ダメですか?」

そう言うと、眉をひそめて彼女は俺を見上げる。
少し不安そうに上目遣いで見つめられ、俺の心臓の速度が上がった。
そんな自分を一生懸命ごまかし、咳払いをして気持ちを落ち着かせる。
そして、彼女の可愛い申し出を、俺は頭の中で反芻した。

――理由は内緒にしておきたいが、少し早く来て会ってほしい。

その意図は全く分からなかったが、のことだ、俺を困らせたり怒らせたりするような理由のはずもないだろう。
何より、俺と会いたいという彼女の申し出が、嬉しくないわけがない。

「……1時間ほど早く来れば良いのだな? まあ、構わん」

嬉しい気持ちを極力抑え、取り繕いながら俺は頷く。
その瞬間、とても可愛らしくはにかみながら「良かった、ありがとうございます!」と手を叩いた彼女はまた格別に可愛くて、俺は自分の感情の高ぶりが顔に出ないように必死だった。

約束

そして、その翌日――今日。
結局の意図は全く分からないままだ。
しかし、部活前のほんの1時間とは言え、自分から二人きりで会ってほしいなど、彼女の性格上なかなか言えることではないだろう。
なのでよほどの理由があるのだろうとは思うが、一体何が目的なのか、皆目見当もつかなかった。

予定通り、俺は1時間早く部室へと向かった。
そして、到着すると一呼吸置いて部室のドアを軽くノックする。
すると、中から声が聞こえた。

「は、はい!」

――の声だ。
早いな、もう来ているのか。

「俺だ。……入るぞ?」

そう声をかけて、俺は部室のドアノブに手を掛ける。
すると、中の彼女が焦った声を上げた。

「あ、ちょ、ちょっと待ってください!!」

そう言うと、中でバタバタと慌ただしく動く音が聞こえた。
どうしたというのだろう。今日のの意図も、行動も、全く分からん。

何か俺にサプライズでもしようとしているのだろうか――しかし今日は別段何の日でもないし。
俺や彼女の誕生日でもない、何かの記念日でもない、祝い事……も特には無いな。
やはり、分からん。

部室のドアの外で彼女の返事を待ちながら、俺がそんなことを考えていると。

「すみません、お待たせしました!!」

中からそんな声が聞こえて、俺はやっとそのドアを押し開けた。

「おはよう、

軽く挨拶をして俺が中に入ると、すぐに彼女の声が返ってきた。

「お、おはようございます」

しかし、肝心の彼女の姿が見えない。
おかしいな、確かにの声がしたはずだが。

「……、どこにいるんだ?」

そう広くもない部室を、俺はぐるっと見渡した。

「すみません、ここ、です」

そんな声が聞こえて、俺はその声がした方に顔を向ける。
すると、彼女がミーティング机の向かい側から、ひょこっと顔だけを覗かせた。

「どうしたんだ、そんなところで」

机の下から顔だけ覗かせて見上げてくる。
その仕草がまるで小動物のようでとても愛らしく、俺の心臓が少し脈を速めた。
それをごまかすように少し咳払いをして、俺は続ける。

「それに、一体、今日はどうしたんだ?」
「先輩、前に約束したこと、憶えてますか?」
「約束?」

はて、最近何か彼女と約束しただろうか。
数日記憶を巻き戻して考えてみるが、思い当たる節が全くない。
よもやとした約束を忘れるなど、あるはずがないと思うのだが――いくら考えても何の心当たりもないのだ。
しかし彼女が勘違いしているとも思えず、俺は次第に焦りを感じ始めてきた。

約束。
約束。
との、約束――

必死で思い出そうとしていた、その時。

「あの、真田先輩」

どこか必死な感じの声色で声を掛けられ、俺は顔を上げる。
すると、先ほどまで机の向こうから顔だけを見せていた彼女が、少し恥ずかしそうに立ち上がっていた。

「約束、したでしょう? 『これ』を一番に先輩に見せる、って……」

そう言った彼女は――立海大附属テニス部の黄色いジャージを身にまとっていた。

――そうだ、確かにと約束をした。
そのジャージが出来てきたら、それを着た姿を、誰よりも早く俺に一番に見せて欲しい――そんな俺の子どものような我が儘を、あの日彼女は快諾してくれたのだ。
なるほど、今日のの目的はこれだったのか。

「お前のジャージが出来てきたのだな。……俺のあんな戯言を、憶えていてくれたのか」
「勿論です! 昨日放課後に出来たって連絡を貰って、今日の午前中、ほんとついさっき取りに行ってきたんです。それで今袋から出して初めて着たので、本当に誰よりも早く先輩に見せてるんですから……」

そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに自分の身体を見渡した。
袋から開けたばかりの真新しいジャージは、光沢もあってこの距離でも新品独特の香りが漂ってくるような感じがする。
それも相まって、なんだか新1年生を見ているような初々しさすら感じた。

やっとの意図がわかり、俺はすっきりしたような気持ちになったが――やがてすぐに心中は違う感情に埋め尽くされた。

立海大附属中テニス部の、伝統ある部活ジャージ。
この3年間自分がずっと着続け、体の一部になったと言っても過言ではないこの着慣れた黄色いジャージを、他でもない彼女が着ているという事実が、なんだか妙に嬉しく、そしてくすぐったく感じてしまったのだ。
これはテニス部員全員が着用しているジャージで、別に彼女の特別な仕様というわけでもない。
なのに、なんなのだろう、この感情は。
皆と寸分たがわない、同じ格好なのに。
どうしてこんなに似合っていて、可愛いと――い、いやいや!! 何を考えているんだ俺は!!
湧き上がってきた感情を必死で押しとどめるように、俺は咳払いをする。

「……あの、どうですか? おかしくないですか? 私もまだ鏡も見てなくて、自分でどういう感じか全然わからなくて……」

不安そうに、彼女が言う。

「あ、ああ、おかしくはない」
「本当ですか?」
「ああ、サイズも合っているようだしな……」
「あ、はい、サイズは問題ないですね。ぴったりかな」

彼女は袖口や裾を引っ張り、ははっと笑う。
そして――俺達の間が静かになった。

違う。
俺は何故こうなんだ。
こういう時に掛ける言葉はこんなことではないだろう、もっと、他に言う言葉があるはずだ!

俺は小さく咳払いをし、息を吸った。
そして、意を決して、その言葉を口にする。

「そ、それに、だ。……うぞ」
「え?」
「いや、その、……と、とても似合っている、と思う、ぞ」

なんだか妙にぎこちなくなってしまった俺の言葉に、彼女の頬が一気に赤く染まる。
こういう反応をしてしまうところも、本当に可愛いと思ってしまう。
……駄目だな。

「あ、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ、約束を守ってくれてありがとう。嬉しかった」
「いえ、私も、真田先輩に一番に見てもらいたかったですもん。それに何より、他の誰でもない先輩にこのジャージが似合ってるって言ってもらえて、本当に嬉しいです」

そう言って、彼女は言葉通り本当に嬉しそうに笑みを零した。
その表情にまたどきりとして、俺の心臓は速度を上げる。

落ち着け。
なぜこれくらいのことで心を乱しているんだ。修行が足りんぞ、俺。
挙動不審になりそうなのを必死で押し留め、俺は心の中で自分自身に必死に言い聞かせる。
そんな内心どうしようもなく取り乱している俺に、ふいにが声を掛けてきた。

「あの、先輩」
「あ、ああ、どうした?」

俺が極力平静を装って返事をすると、彼女はその顔を更に真っ赤にしながら、俯いて小さな声を紡ぎ出した。

「あの、あの……先輩も、早く着替えてくれませんか?」
「着替える? ジャージにか?」
「はい……」

こくんと頷いて、彼女は静止してしまった。
そのままもじもじと何かを言い辛そうにしていたが、やがて、決意したように顔を上げ、ぎゅっと両手を握りしめて、俺に言い放った。

「あの、他の先輩たちが来る前に、先輩とふたりで、あの、お揃いで写真撮りたいんです……!! お願いします!!」

ああ、もう駄目押しだろう、これは。
そんな必死な顔でねだってきたその内容が、俺とお揃いで写真が撮りたい、なのか。
――なぜ、そんな可愛いらしいことを言ってくれるのだ。
彼女が今、すぐ傍にいなくて良かった。
机を挟んでいなければ、抱きしめていたかもしれない。
俺はぐっと掌を握りしめて、その感情を四散させる。
そして、咳払いで呼吸を整えると、「分かった」と小さな声で彼女に返した。

俺が頷くと、彼女は真っ赤な顔のまま、「じゃあ私は外に出てますね」と慌てて部室の外へと俺の側をすり抜けて出て行った。
ドアの閉まる音がして、一人になったことを確信すると、俺はそのまま額を抑えて座り込む。

……駄目だ。が可愛過ぎて、たまらん。
あいつは俺の心をどれだけ乱しているのか、分かっているのだろうか。

(いや、分かっていないだろうな。あれは完全に無意識だ。だから性質が悪い)

そんなことを思いながら、俺は心を落ち着けるために、もう一度大きく息を吸う。
なんとか息を整えて立ち上がると、自分のロッカーを開けて、急いで自分の黄色いジャージへと着替えた。

そして、数分後。
ジャージへと着替え終わり、俺は外に向かって声を掛ける。

、着替え終わったぞ」
「あ、は、はぁい!」

外から可愛らしい声が聞こえて、部室のドアがノックされる。

「じゃあ、入っていいですか?」
「ああ」

俺が返事をすると、ゆっくりとドアが開き、彼女がそっと中を覗き見てきた。

「失礼します」

そう言っては後ろ手でドアを閉めながら、少し遠慮がちに中へと入ってくる。
そして、俺の側まで来ると、無言でじっと俺を見上げてきた。
改めて彼女に無言で見つめられ、俺の顔の熱が上がる。

「……どうした」
「あ、す、すみません。当たり前なんですけど、あの、お揃いなんだなあ……って」

そう言って、は恥ずかしそうに、でもとても嬉しそうに笑った。
その言葉に、俺はまた思わず彼女から視線を逸らしてしまう。
だからもう勘弁してくれ。いちいち俺の心を刺激するようなことを言うな!

そんなことを思いながら、俺は必死で心を落ち着かせると、やっとのことで次の言葉を紡いだ。

「そ、それでは、他の奴らが来る前にさっさと写真をとってしまおう」
「はい!」

俺の言葉に、彼女がはちきれんばかりの笑顔で頷く。
そして。

「じゃ、じゃあ、ちょっと、失礼しますね。ごめんなさい」

そう言って、は携帯を片手に傍に寄ってきた。
そうか、一緒に写真を撮るということは、傍で並ぶと言うことになるのか……!!

先ほどから彼女の言葉や行動に心を刺激されまくっている俺には、この距離感は本当に心臓に悪い。
なんだか試されているような気にすらなりながら、俺は無言で彼女の隣に並んだ。

「えっと、インカメラにして」

そんなことを言いながら、彼女がそのまま斜め上に携帯をかざす。
彼女の携帯のディスプレイに、俺達二人が映ったが、どうやらフレームに収まり切っていないらしく、二人の顔は半分ずつしか映っていない。

「あ、も、もうちょっと寄らなきゃダメかな……」

そう言って、おずおずと彼女が体を寄せてくる。
それに比例して、俺の心臓の速度も上がる。

彼女が身を寄せてきても、まだもう少し近づかなくてならなさそうで、俺も少し彼女の方に寄った。
――瞬間、身体の側面が当たった。
俺の心臓が跳ねる。
同時に、彼女が携帯を落としそうになった。

「わわ、すみません! あ、カメラ切り替わっちゃった……!!」

慌てて携帯を下ろし、は再度操作をし始める。
しかし普段は慣れた手つきで携帯を操作する彼女が、なんだか妙に操作を間違えているようだ。
焦っているのだろうか。
もしかして、俺が嫌がっているとでも勘違いしているとか……?

そうかもしれない。
先ほどから、俺は自分を取り繕うのに精いっぱいで、おそらく表情も堅いだろう。
だから焦って早く撮らねばと、勘違いをしているのかもしれない。

ち、違うぞ!!

俺は慌てて、口を開いた。

、そ、その、俺は別に写真を嫌がっているわけではないから、ゆっくり操作しろ」
「え?」
「いや、だから、だな。お前との写真を撮ることを嫌がっているように見えたのなら、それは誤解で、俺はお前と撮ることはむしろ嬉しいくらいで、だな」

何を言っているのか自分でも分からなくなりながら、俺は彼女に向かって必死で言葉を続ける。

「だから、俺が嫌がっているように見えて焦って早く済まさなければと思っているのなら、だな。その、大丈夫だから、落ち着いて操作しろ、と」

俺がそこまで言うと、彼女は目を瞬かせた。
そして、俺に向かって、慌てて捲し立て始めた。

「あ、す、すみません、先輩が嫌がってるとは思わなかったんですけど、あの、私が焦ったのは、あの、ただその、ちょっと緊張しちゃったというか」

早口でしどろもどろになりながら、彼女は続ける。

「あの、先輩のこんな近くにいるんだなって思ったら、なんかすごく緊張しちゃって……。それだけなんです。ごめんなさい、私こそ誤解させちゃって」

彼女の顔がどんどん真っ赤に染まる。
ああ、そうか。
緊張して心を乱していたのは俺だけではなく、彼女もだったのだ。

「そう、か。だったら、同じ……だな」
「え?」
「俺もこんなに近くにお前がいると思ったら、緊張してしまった」
「先輩も、緊張してたんですか?」
「こんな近くにお前が居て、緊張しないわけがないだろう。……ああ、いや。お前が近くに寄って来る前から、今日はずっと緊張しっぱなしだがな……」

俺は素直に全てを吐いた。
がこのジャージを俺に一番に見せたいと言ってくれたことも、本当にその約束を守ってくれたことも、お揃いで一緒に写真を撮りたいと言ってくれたことも、全て嬉しく思い、らしくないほど胸を高鳴らせてしまったと。

「……全く、お前に出会ってから、俺はお前に振り回されっぱなしだ」

そう言って、俺は情けなくなりながらハハっと笑う。
すると。

「……私だって、同じですよ。というか、私は毎日先輩にドキドキしっぱなしですから。先輩のジャージ姿にドキドキしない日なんてないですもん。いつまで経っても慣れないんです、私」

そう言って、は俺の肩に頭を寄せてきた。
そんな彼女に視線を落とすと、真っ赤な顔の彼女と目が合う。
どきりとして思わず目を瞬かせたが、お互い同じような心境なのだと思ったら、自然と笑みがこぼれた。

「お互い様、か」
「ですね」

そう言い合うと、彼女は再度、携帯を空にかざす。
無言でそちらを見やると、フレームには、寄り添った俺達が綺麗に収まっていた。

「じゃあ、撮りますね」
「ああ」

俺が頷くと、彼女はそっとシャッターを切る。
すると、彼女の手の中にあった携帯に、同じ黄色いジャージを着た二人の姿が克明に刻まれた。

その写真をじっと見つめ、はふふっと笑う。

「やだな、もう。私しまらない顔してる。……こんなんじゃ駄目ですね。王者立海の一員としてこのジャージを着てるんだから、もっとしっかりしないと」

そう言って、携帯をポケットにしまい込み、気合を入れるように自分自身の顔をパンパンと叩いた。
そして。

「先輩。私、このジャージに恥じないような、王者立海のマネージャーであり続けるよう、頑張ります!」

は、力強くそう誓った。
大きく頷き、俺も応える。

「ああ。……お前なら、大丈夫だろう。頑張ってくれ」

「はい!」

力強い返事が、部室に響いた。
もとより心配などしていないが、なら、この誓いも必ず成し遂げてくれるだろう。
何せ、どんな些細な約束でも絶対に忘れず果たしてくれる、彼女なのだから。

yellowの続編でした。
出来上がってきたジャージを一番に見せる約束をしたところで閉めたので、おひろめするシーンも書きたかったのです。
まあ、見事に私のワンパターンシチュエーションですが(笑)真田君がペースを乱される姿は描いていて非常に楽しいので許してください。