What is today?

何事でもないはずの5月23日、のはずだった。
一昨日に俺の誕生日を仲間たちやに祝ってもらい、今日はただの平日。
……の、はずだったのだ。
しかし、業間休みにたまたま遭遇した幸村や蓮二と雑談していたら、幸村が唐突にとんでもないことを口にした。

「そういえば、今日、キスの日らしいね」
「キ……!?」

幸村の言葉に、俺の顔が一気に熱くなる。
キス、と言葉だけで、俺の脳裏にの顔が掠めて、俺は思わず口元を抑えた。

「真田、今『なにか』想像したでしょ」

にやにやした笑みを浮かべ、幸村が俺の腕をつつく。
それを振り払い、強がって「なんでもないわ!」と顔を背けたものの、自分の顔の熱がどんどん上がって行くのが分かった。
そんな俺たちのやり取りを笑って見ながら、蓮二が言う。

「ああ、ちなみに由来は日本映画で初めてキスシーンが出てきた日だそうだ」
「あ、そんな由来なんだ。よく知ってるね、さすが柳」
「女子が騒いでいたものでな。由来が気になってすぐに調べたんだ」

二人がそんな話をしているが、俺の頭には入ってこない。
先ほど浮かんだの顔が脳裏から離れず、それを四散させるのに精一杯だ。
そんな俺に、幸村がまた面白そうな顔つきで背けたままの俺の顔を覗き込もうとする。

「真田、どんどん顔が赤くなってるけど? 何を……いや、誰を想像してるのかな?」
「うるさい! だ、だいたい、なんでもかんでも記念日にすればいいというものではないだろう!! くだらん、なんなんだ全く!! 俺は教室に戻るぞ!!」

自分でも何を口走っているか分からなくなりながらも、そんな悪態をつく。
そして、二人を残して俺はそのまま教室に戻った。

しかし、その後も俺の脳裏に住み着いたの顔は、消えてはくれないままだ。
キスの日、と言われれば、どうしても俺の脳裏には彼女とのそれが浮かんでしまう。
キス――俺達がする「それ」など、ほとんどがほんの少しの間唇が触れる程度の、軽いものばかりだ。
けれど、重ねた唇の熱を感じ、離れた後も彼女のあの恥ずかしそうな、それ以上に幸せそうな、そんな表情を見ていると、本当に何とも言えない気持ちになるのだ。
なんだかすべてが満たされたような――いや、まだまだ足りないような――とにかく自分の五感全てが彼女でいっぱいになって、それがまた例えようもない幸福感を与えてくれる。
確かに俺は、あの瞬間が、嫌いでは、ない。

今日が、そのような日だというなら――いやいやいや!!
何を考えているんだ俺は!!!
本ッ当にたるんどるぞ、俺!!!

それから俺は、何度もの顔を思いだしては、顔を熱くさせた。
そんな精神をなんとか立て直し、保ち、その日の授業を終える。
放課後部活で彼女と顔を合わせ、また先ほどのことを思いだして、内心取り乱したりもしたが、それも何とか乗り越えて、今日も終わりを迎えた。

駅前で皆と別れ、をいつものバスに乗せて見送るために二人きりになる。
一緒にバスに乗って家の前まで送るのはよほどの時だけなのだが、がバスに乗って出発するまでは、毎日必ず見届けているのだ。
それは俺が彼女と付き合い始めた中学のころから続けている、俺の日課だった。

今日は散々精神を乱されたが、なんとか俺の心も落ち着いてきたようだ。
平静を装いながら、いつものように彼女が乗るバスが着く乗り場に移動し、ふたりでベンチに座って、他愛ない雑談をしながらバスが来るのを待っていた。

その時だった。
話の切れ目で、が黙り込み――そして意を決したように、隣に座っていた俺に向かって問いかけた。

「せ、先輩。あの、今日って何の日か知ってますか?」

――何の日、だと?

その質問に、思わず俺の目が見開かれる。
それは、今日ずっと俺の脳裏から離れず、且つ、ひたすらに考えないようにしていたことだったからだ。

「ど、どうしたんだ、急に」

自分の心臓がどんどん速度を増しているのを感じながら、それでも彼女にそれが悟られないように、俺はつとめて冷静に尋ね返す。

「あの、今日って、ちょっと特別な日、みたいなんです。今日、あの、ちょうど友達に聞いて。だから、あの……」

もじもじした小さな声で、しかしどこか必死そうに言う彼女の頬が、どんどん薄紅に染まって行く。
その様子を見ていると、俺の心臓も、更に高鳴りを増していく。

――ああ、彼女も知っていたのか。今日がその――キスの日、だということを。

「あの、だから、ですね……あの、私、先輩に、ですね……あの……」

頭を垂れ、その頬をもう完全に真っ赤に染めた彼女は、そのまま動きを完全に止めてしまった。
その続きをいう事も出来ず、照れていっぱいいっぱいになっているのが、ありありと伝わってくる。

まさか、キスの日だから、今ここでキスをしたいとでも、言うのだろうか。
いや、ここは駅前のバス停だぞ!? 幸いこの乗り場には今俺たち以外には待ち人はいないが、かと言って誰も通らないわけでもないし、ここでそんなことができるわけがないだろう!?

そうは思うが、普段ほとんどわがままも言わないが、こんなに必死になって俺に訴えてきているのに、それに応えてやれないのは男としてどうなのだろうか。
それに何より、俺だって彼女と、したい気持ちが、ないわけでは、ない。
しかしやはりこのような場所でするべきでは――

彼女の望みに応えてやりたい気持ち。
俺自身が彼女と唇を重ねたい欲望。
しかし場所を考えろと囁く理性。

そんな自問自答をぐるぐると繰り返し、頭が混乱を極める。
せめてここが人目に付かない場所で、完全に二人きりでいるのであれば、俺だってこんなに悩みはしなかっただろう。
しかしやはり一時の感情に流されて、このような場所でそのような行為をするのは、やはり、やはり、――駄目だ。

ぐっと、俺は拳を握りしめた。
そして。

「……、気持ちはわかるが、やはり」

俺がそう言いかけたのと。

「先輩、これ書いてきたので後で読んでください!」

彼女が真っ赤な顔で小さな封筒を差し出したのは、同時だった。



――状況が、全くつかめない。
なんだ、これは。
封筒?

言葉を完全に失い、動作が止まってしまっている俺とは対照的に、彼女は顔を伏せたまま、必死で言葉を紡ぎ始める。

「あの、本当に自分でも馬鹿みたいだって分かってるんです。今更言わなきゃいけないことでもないし、手紙にするほどのことでもないと思うしって、でも、あの」

手紙?

「でも、あの、今日って、ラブレターの日だって聞いちゃったから、あの」

――ラブレターの日!?

「今日は、キスの日では!?」
「え、キ、キスの日!?」
「幸村と蓮二は、確かにそう言っていたぞ!? だから俺はてっきりお前がキスを――」

俺の言葉に、彼女の顔が一気に赤く染まる。

「えええええ!? わ、私が友達から聞いたのは、ラブレターの日だって……え、キスの日、なんですか? 今日? え、でも私、5月23日って、ラブレターの日だって聞いたんですけど」
「お、俺だって幸村と蓮二から今日はキスの日だと聞いたんだ」

よもやあいつらに騙されたのだろうか。
いや、それにしては由来まで語っていたし、女子が騒いでただのどうのと、いやに詳しい状況まで語っていたのだ。
いくらあいつらとはいえ、そのような嘘を言うようには思えないのだが。

俺達は顔を見合せて、無言で目を瞬かせた。
そして、彼女は自分の鞄を探って携帯を取り出すと、なにやら操作を始めた。
どうやらネットで調べているらしかったが、その動作はすぐに止まる。
やがて彼女は、ぽつりと零した。

「……どっちも正解、みたいですね」
「どっちも?」
「はい、5月23日は、ラブレターの日でも、キスの日でも、あるみたいです。……あと、カメの日ですって」
「カメ?」
「はい、カメ。生き物の、亀です」

そう言って、は俺に携帯の画面を見せた。
そこには確かに、5月23日は「キスの日」で「ラブレターの日」で、そして「世界亀の日」であると書かれていた。

再度少し瞬きをして、無言で顔を上げ、彼女と顔を見合せる。
――そして。
俺達は、こらえきれず、笑った。

「考えてみれば、一つの日に複数の記念日があることなど珍しくもないな。こんなもの大抵こじつけに過ぎないのだから」
「そうですね。今日はラブレターの日で、キスの日で、亀の日、なんですね。面白いなあ」

そう言って、彼女はふふっと笑みを零す。

「じゃあ、今日はラブレターの日なので、改めてこれ、受け取ってくれますか? 休み時間に友達から聞いて急いで書いたので、字とかあまりきれいじゃないんですけど」

彼女は俺に向かって、もう一度手にしていたそれを差し出した。
先ほどは俺も別のことで頭がいっぱいで、予想外の出来事に驚いてしまったが、手紙など今時そうそう貰えるものでもないし、しかもそれがからのものとあれば、嬉しくないわけはない。

「……もちろんだ。ありがとう」

そう言って、俺はその白い封筒を受け取った。
表面には、見慣れた、でもどこかかしこまっているようにも見える彼女の手書きの文字で、「真田先輩へ」と書かれている。
それだけで、彼女が一生懸命書いてくれたのがありありと伝わってきて、心臓の鼓動が早くなった。

「まさか、誕生日が終わった直後に、再度こんな贈り物をもらえるとは思っていなかったな」
「そ、そんないいものでもないですけどね。ほんと、急いで書きましたし。封筒は購買で買いましたけど、中の便箋なんかただのルーズリーフですし……」

照れているのをごまかすように大げさに笑いながら、それでも頬をほんのりと桜色に染め、は続ける。

「でも、ラブレターの日、って分かって、どうしても書きたくなったんです。ほら、先輩は私にたまに書道の作品をくれるでしょう? 四字熟語の……。あれだって、私にしてみれば立派なラブレターみたいなものだなっていつも思ってて、だからいつか、私も言葉で返したいなって思ってたんです。だから、今日がラブレターの日だって分かった瞬間、これはいいきっかけだなって思っちゃって」

そう言いながら、はにかむの顔が、再度どんどん赤くなっていく。
確かに、一度欲しいと言われてから、たまに俺が書いた書を彼女に渡してはいた。
どうやら迷惑がってはいないようだというのは感じていたが、まさかそのように大切に思ってくれていたとは……。

――ああ。
やはり俺は、が、好きだ。

そう思った瞬間、俺の中で先ほど必死で抑えた欲が、また湧き上がって来てしまった。
抑えきれず、俺は手紙を受け取った方とは逆の手で、彼女の手をぎゅっと握る。

「せ、先輩?」

少し驚いたの声が聞こえたが、俺の衝動は止まらなかった。
俺は、握った彼女の手を俺の方に引く。
勿論、このような往来で口付るなど言語道断だ。
――しかし。この程度、なら。

「今日は、『キスの日』でもあると言っただろう? ……これくらい、許してくれ」

そう言って――俺は握っていたの手に、そっと口付けた。

ゆっくりと、その手を放す。
彼女が少し震えているような気がした。

指先に軽くしただけといはいえ、やはりこのようなところでするべきではなかっただろうか。
彼女の気持ちも確かめず、このような行為に走ってしまうなど、精神が未熟にも程がある。

自分のしたことに今更ながら恥ずかしくなり、俺は彼女から視線を逸らして謝罪の言葉を口にする。

「……すまない。やはり、お前の気持ちも考えず、いささか強引だった」

すると、逸らした視線の端に、彼女が必死で首を横に振っているのが映った。
俺は、またに視線を戻す。
俺と目が合った彼女は、頬を染めながら、また必死で首を横に振った。

「そ、そんなことないです、ちょっとびっくりしましたけど、私、う、うれしかった……です」

そんなことを必死になって言いながら、は俺が口付た指先を、愛おしそうにもう一方の手で包み込む。
そして。

「キスの日、ですもんね」

小さな声でそう呟くと、そっと目を閉じ、は俺がしたキスに重ねるように、自分の指先にキスを落とし――

「ほんとうは、直接、したい、ですけど」

囁くようにそう言って、耳まで真っ赤になりながら、微笑った。

、それは反則だろう……!!

思わず口元を抑えて、俺は彼女から視線を逸らした。
驚愕と高鳴りと嬉しさと愛おしさ――いろんな感情が混ざり合って俺の心臓を刺激し、顔がどんどんその熱を上げていく。
放っておけば抱きしめて今度こそ唇にキスでもしかねない自分を、俺は必死で抑え続けてひたすらにバスを待ったのだった。



やがて、バスが来て、彼女と別れた。
なんとかあれ以上自分が彼女に手を出さなかったことにほっとしながら、俺もまた帰路につく。

自分の家に帰るバスの中で、からもらった手紙を読んだ。
それには、いつも俺にどれだけ支えられていて、どれだけ俺のことが好きか、今自分がどんなに幸せかと、彼女の可愛らしい字で、切々と語られていた。

ただでさえ先ほどのあの出来事で、俺はいっぱいいっぱいだというのに――これは駄目押しだ。
ああ、今が隣にいなくて本当に良かった。
おそらく、いま彼女が隣にいれば、キスの日だとか今どこにいるだとか、そんなことは全く関係なく、今度こそ本能のまま唇に口付ていただろう。

そんなことを考えて、俺は苦笑を漏らす。
そして、また彼女からの手紙に最初から目を通し始めた。
この返事をどんな形で返してやろうかと、そんなことを企みながら。

定番?の「5月23日はキスの日」というネタで書いてみました。
キスするようになっても、きっと真田は人前でキスなんかしないし、二人っきりで人目のない場所でもない限りできないと思うんですけど、それは決して「キスをしたくない」というわけでもないと思うんです。
彼女と触れ合うこと自体は幸せだし、もっとしたいと心の奥底では思っている。けれども、彼の考えるモラルはそれを許さない。
欲望と衝動と自制心と、そんないろいろな感情のはざまで葛藤する姿を書きたくて、こんな話が出来ました。