部活の無い、ある日のこと。
一緒に帰るためにと部室でおち合い、俺達は次のバスの時間まで時間を潰していた。
その時、あることを思い出し、俺は何ともなしにに尋ねた。

「そういえば、『かべどん』とは何か知っているか?」

――俺の言葉に、彼女の表情が一瞬固まった。

The clear winner

それは、少し前の話だ。
丸井と赤也が、放課後いつもの調子で軽口をたたき合っていたのを、俺はたまたま近くで聞いていたのだ。

「壁ドンって、一回やってみたいっすよね!」
「好きな子にやるの想像すると、ちょっと燃えるよな」
「あれ、女子もされるの嬉しいらしいっすよ」
「はは、まーそう言っても好きな相手とか『イケメンに限る』なんだろーけどな」
「じゃ、俺は大丈夫っすね!」
「言ってろぃ、もじゃ毛」

別に聞くつもりは無かったが、近くであんな大声で話されていれば聞きたくなくても耳に入ってくる。
『かべどん』とは何かよく分からないが、女子がされて嬉しいこと、と言われれば少し気にはなるというものだ。
もし本当に喜ぶことなのであれば、可能な限りにしてやりたい、と思う。
しかし、赤也や丸井に聞くのも癪だったので聞くに聞けず、俺はその言葉だけがずっと頭に残っていたのだった。

そういうわけで、一番聞けそうなに尋ねてみた。の、だが。
先ほど例の言葉を尋ねてから、彼女がずっと固まっている。
そんなに変なことを聞いてしまったのだろうか?
も、もしかしてものすごくいかがわしい言葉だったのか!?

そういえば「女子が好きな相手からされると嬉しい」とは言っていたが、どういう時に、どういう感情を込めてすることなのかすら知らない。
もしかしたら、俺はとんでもないことを聞いてしまったのではないだろうか。
そう思うと、かあっと顔が熱くなった。

「す、すまん少し小耳にはさんだだけで、全く知らない言葉だったのでついお前は知っているかと思って聞いてしまったのだが、言いづらい言葉なら言わなくていいんだ!」

恥ずかしさのあまり、つい早口になる。
そして俺は深々と頭を下げた。

「本当にすまない、気にしないでくれ」

すると、がくすくすと笑う声がして、俺は顔を上げる。

「いえ別にそういうわけじゃないんです。 ただ、先輩から『壁ドン』なんて言葉が聞けると思わなくて」

そう言って、彼女は更に笑みをこぼした。

「別に言いづらいとか変な言葉とかじゃないですよ。ただ、確かに先輩は知らないだろうなって思って」
「うむ……聞いたことが無い言葉だな……」

まだ少し恥ずかしい気持ちがあるが、とりあえずいかがわしい言葉ではないようだ。
それに少し安心して、俺は咳払いをして気持ちを整える。

「では、どういう言葉なのか改めて聞いてもいいか?」

改めて俺が尋ねると、は「うーん」と小さくつぶやいた。

「変な言葉じゃないんですけど……言葉では説明しにくいなあ。えっと、壁際で、あの」

どうやら説明しづらいらしく、彼女は口元に可愛らしく小さなその手を当てながら、更にうーん、うーんと悩むように声を漏らす。
しかし、少し考えた後、何かを思いついたように動きが止まった。
――そして。
が、悪戯っぽく笑った。

「実際、やってみた方が早いかもしれないです。あの、先輩……ちょっと壁際に、立ってもらえますか?」

先ほどの表情のまま、何故か少し顔を赤くして彼女は言う。
その不自然さに、が何か企んでいるな、というのはすぐに分かった。――本当に分かり易い奴だ。

「壁際に?」

「はい、あの、すぐ済むので」

「分かった」

これがもし他の人間なら、目に見えて分かる企みに載せられるのは癪だと抵抗もしただろうが、彼女が企むことなど可愛らしいことに決まっている。
正直、俺自身も彼女が何をしてくれるのか興味もあった。
俺は言われるがままに立ち上がると、ゆっくりと壁際に寄り、壁に向かってまっすぐに立つ。

「これでいいのか?」

「あ、いえそれじゃ駄目です。……あの、こっち向いて立ってください」

の声が背後から聞こえた。
そういえば、丸井と赤也は女子がされて嬉しいこと、と言っていた気がするのだが、男女逆でもいいものなのか?
全く分からんな。一体なんなのだ、「かべどん」とは。
そんなことを思いながら、俺は彼女の声に応えてゆっくりと体ごとの方を向いた。

その瞬間、俺の二の腕の横を何かが勢いよく通過した。――それは、彼女の細い腕。
が利き手の腕をぐっと伸ばし、俺の背後の壁に押し当てたのだ。
途端に、俺はに壁際に追い詰められたような格好になる。
思いもよらなかった彼女のいきなりの行動に、俺は完全に頭が真っ白になった。

状況が把握できず、しばらく無言で目を瞬かせていたら、下から真直ぐに俺を見上げたの顔が目に映る。
それは、真っ赤になりながらも、「してやったり」という表情に見えた。
そんな可愛らしい顔で、そしてこんな至近距離に詰め寄られて、俺の脈が一気に跳ね上がる。
そして。

「……へへ。これが『壁ドン』、です」

は壁に手をついたまま、悪戯っぽく笑った。

「これが?」

「そう、壁際に寄って、こーやって相手をドンッって追い詰めるんですよ。先輩、ちょっとドキってしました?」

――ああ、したとも。
こんなふうに近くに寄られて、そんな可愛い顔で下から覗き込まれるだけで、十分心臓に悪いに決まっているだろう――

そんなことを思いながら目を瞬かせていると、見事企みが成功したのが嬉しいのだろう。彼女は舌を出してへへっと笑った。

「ごめんなさい。ちょっと先輩に悪戯してみたくなっちゃいました。でも、ドキドキしてくれたんなら大成功ですねっ。私の勝ちです」

いや、お前が急に近くに寄ってきてそんな可愛らしい顔で覗き込んできたりするから脈が上がったのであって、別にこの動作自体のせいではないがな。全く、本当に可愛いことを言う奴だ。

(こんな悪戯なら大歓迎だな)

そんなことを思いながら、の嬉しそうな顔を見ている内に、ふと、俺もあることを思いついた。
確かにこんな悪戯なら大歓迎だが、一方的に悪戯されっぱなしなのは、性に合わんな。
お前がそんなことをするのなら、俺だって――

にやりと笑い、俺はまだはしゃいでいるの肩に手をやった。
その瞬間、彼女が表情を止め目を見開いたが、そのままぐいっと自分の方にその体を引き寄せる。
そして、もう一方の手で彼女の腕を引いて身体を回転させ、逆に壁際に押し付けると、その勢いのまま左手で彼女の横の壁に俺自身の腕を押し当てた。
俺達の位置が、先ほどと完全に逆転する。

「……こうか。なるほど、これが壁ドンというやつなんだな」

わざとらしくそう言って、至近距離での顔を見下ろしてやった。
きっと状況が分かっていないのだろう、先ほどの悪戯っぽい笑みは消え去り、彼女は目を見開いたまま俺を見上げ、何度も何度も目を瞬かせている。
そして――次の瞬間、彼女の顔が先ほどとは比べ物にならないくらいに、耳まで真っ赤に染め上げられた。

どうだ、これなら俺の勝ちだろう。
思わずにやにやと笑いながら、俺はもう一度、彼女の顔をじっと見つめる。
彼女は言葉を失ったのか物は言わぬままだ。しかし、伝わってくる感情は決して嫌悪や拒否ではない。
ああ、なるほど。あいつらが言っていた、女子が喜ぶとのいうのはあながち嘘ではないらしい。

そんなことを思いながら、ただ何も言わないまま頬を紅潮させ、上目づかいで俺を見上げてくる彼女を、じっと見つめた。
そういえば、こんなに近くで、彼女の顔を見ることはそうそうないかもしれん。
なんというか……艶やか、というのはこういうのをいうのだろうか。
可愛らしい瞳。柔らかそうな唇。桜色の頬。すべてがいとおしくなる。
俺の、大切な――こんな表情は、絶対に誰にも見せたくない。
叶うなら、このまま腕の中に閉じ込めて、連れ帰ってしまいたい。
そしてずっと傍に置いておくことができれば、どんなに幸せだろう――

そこまで思って、俺ははっと我に返った。
少し顔を下げたら口付すらできそうな距離で、壁際に追い詰めて動けないようにして、あまつさえ連れ帰りたいなど考えるなど――な、何をやっているのだ、俺は!

しかし、今更気づいても遅い。遅すぎる。
もうやってしまった。どうしたらいい。
ああ。
あああああ。
と、とにかく、一刻も早く離れなければ!!!

「す、すまんやりすぎた!」

やっとのことで言葉を発することができた俺は、まるで魔法が解けたように、慌てて彼女の背後の壁に付いていた腕をどけた。
そして、彼女に背を向けて、その空気をごまかすように咳払いをする。

「お、お前の悪戯の仕返しのつもりだったんだが。つい、やりすぎてしまったな。すまない、気にしないでくれ。俺が悪かった」

そう言って、俺は大げさに笑う。
の顔を見ることができないまま、そろそろバスの時間が近づいていることに気づき、部室を出ようと言おうとした、その時。
ふいに彼女に向けていた背中にぬくもりを感じた。
――彼女が、背中に寄り添うようにぎゅっと抱きついてきたのだ。
そして。

「もう……やっぱり先輩には勝てないなあ……」

背後から、そんなの呟きが聞こえた。

「せっかく勝てたと思ったのに。こんな簡単に逆転されたら、もう私一生先輩に勝てる気がしないなあ」

ああ、それは俺のセリフだ。
あんな顔を見せて俺を翻弄しておいて、この上更にこうやってお前は俺の心を揺さぶるのだから。

「今の壁ドン、あんなの反則ですよ、もう……」

「あ、ああ、いや……ただ、赤也たちが『かべどん』は女子が喜ぶ、などと話していたのを聞いたものだから、気になったのだ。まさか、お前にされるとは、思っていなかったが」

いろいろな感情をごまかすように、俺は早口で言う。
するとはふふっと笑った。

「誰からやられてもいいわけじゃないですけどね。私が嬉しいのは、……真田先輩、だから、ですよ」

そう言って、彼女は一旦、言葉を止めた。
そして。

「だいすきなひと、だから」

本当に、本当にわずかに聞こえる程度の声で囁いて、彼女は更に恥ずかしそうに俺の背中に頭をうずめてきた。
お前は、その無意識な動作ひとつで、俺がどんなに追い詰められてる気持ちになっているのか分かっていないのだろうな。
先ほどの艶やかな表情も、その可愛らしく縋ってくる小さな身体も、おそらく全く意識していないその情熱的な言葉も――俺にとってはどんなに刺激的だと思っているのだろう。

――ああ、もう、俺の完敗だ。

一方的に負けることなど、俺の性に合わん。
合わんが――こんな心地のいい負けなら、まあ、いいだろう。
しかしいつかは、目にものみせてくれるぞ、

このお話は、twitterの診断メーカーで出た何気ない結果に、フォロワーのそうまさんがとっても素敵絵を書いてくださったことからあれよあれよとできたお話です。
真田が彼女に壁ドンしている素敵絵はこちらからどうぞ。ヒロインの顔が描かれているので、夢絵が苦手な方は少しご注意くださいね。
掲載許可をくださったそうまさん、本当にありがとうございます!

ちなみにタイトルのclear winnerは圧倒的勝者、という意味です。
お互い一生相手に勝てないと思いながら、このまま二人はずっと終わらない勝負を続けるんだと思います