愛しい、と思う気持ちには際限が無いらしい。
あの日、神や皆の前で誓い合い、彼女の名が自分と同じになって、共に暮らすようになり、名実ともに「夫婦」となった。
ずっとずっと望んでいた、彼女の全てを手に入れて、本当にこれ以上ないほど幸せなのに――彼女を思う気持ちは、収まるどころか、日ごとに募る。
1日が終わり、いつものように真田はと共に寝床に入る。
寝床の中で二人で寄り添いながら、寝物語に彼女と今日あった話を交わすのは、ほぼ日課になっていた。
しかし、今日の出来事だと彼女が笑顔で話してくれた話――その内容に反応して、真田は思わずむくりと起き上がり、を見る。
「執事喫茶?」
「うん、今日友達と買い物に行った時に、ちょっと通りかかってね。面白そうだねって、入ってみたの」
愛らしい笑顔を浮かべ、彼女は言う。
それとは対照的に、真田の眉間に皺が寄った。
しかし、真田の様子が変わったことに気付かないは、楽しそうに笑って続ける。
「面白かったよー。本当に皆執事の格好してるんだよ? しかも、入るなり『お帰りなさいませ、お嬢様』なんて言われたり、『今日の白のお召し物は可愛らしいお嬢様にぴったりですね』とか言われちゃったりね。なんかすっごく照れちゃった」
そこまで言って、ははっとする。
真田の様子がおかしいことに、やっと気付いたのだ。
「……弦一郎?」
「なんだ」
ぶすっとした表情を隠そうともせずに、真田は枕元に片肱をつく。
その様子を見て、は彼の機嫌が完全におかしいことを悟ったのか、慌てて体を起こし、真田の顔を覗き込んだ。
「な、なんで怒ってるの? 執事喫茶って、別に怪しいお店じゃないよ? 弦一郎、なんか勘違いしてない?」
「……勘違いなどしていない。執事の格好をした男が、客に給仕するところだろう」
「そうだよー。ウエイターさんが全員執事の格好してて、ちょっとかしこまってお客さんをお嬢様扱いしてくれるってだけで、後はほとんど普通の喫茶店だよ?」
「……ああ、わかっているとも」
わかっているといいながらも、どんどん眉間に皺が寄る。
怪しい店じゃないことぐらい、勿論わかっている。
わかっているけれど――それでも、やはり最愛の妻が他の男にかしづかれて喜ぶような姿など、想像するだけで面白いわけがないし、腹立たしさにも似た感情がふつふつと湧く。
しかも、他の男相手に照れただなんて聞かされれば、尚更だ。
……彼女を照れさせるのは、世界中でたった一人、自分だけでいいのに。
「わかってるんだったら……なんで怒るの?」
しかし彼女は、自分のそんな嫉妬心など、全く気付いていないようだ。
本当にわからないという顔で、少し口を尖らせて、まだあどけない少女のような顔でこちらを見る。
「わからないか?」
「わかんない。だって別に後ろめたいことなんてしてないもの。ただ友達とお茶飲んできた、それだけなのに。……だいたい、昔弦一郎もやったじゃない。執事喫茶」
のその言葉に、真田は驚き、慌てて目を見開いた。
――そんな経験は断じて無い。
一体何の話しだ、と言いかけた瞬間、脳裏にふと何年も前の遠い記憶が蘇る。
そういえば、まだ自分が中学三年だった頃――当時の文化祭の出し物で、そんなことをやった記憶がなくも無い。
妙にノリのいいクラスで、お調子者のクラスメイトが冗談半分に言いだした提案が、あれよあれよという間に通ってしまったのだ。
自分は最後まで反対したが、多数決で決まったことに文句を言えるはずもなく、結局従うしかなかった。
せめて、当時付き合い始めたばかりの彼女や、部活仲間にはそんな姿を見せたくなく、一生懸命隠そうと試みたのだが、やはり隠しとおせるはずもなくて、しっかりバレて仲間達にからかいのネタにされたのだ。
正直なところ、真田にとってはあまりいい記憶ではなかった。
「、人聞きの悪いことを言うな。文化祭のクラスの出し物で、たった1度だけ仕方なくやっただけだろう」
「でも、弦一郎が執事喫茶で執事やったことには変わりないでしょう?」
そう言って、彼女はからかうように笑う。
真田は、言い返すことも出来ず、ただ眉間に皺を寄せながら唸るような声を漏らした。
「今日は私の勝ちかな、弦一郎」
言い負かせたのが嬉しいのか、は少し勝ち誇ったような笑みを見せると、その身体を寝床に埋め、楽しそうに枕をぎゅっと抱きしめる。
その仕草がとても可愛くて、思わず眉間の皺が消えた。
真田はふっと笑みを漏らして、そんな彼女に手を伸ばし、頬に優しく触れる。
彼女もまた、その手を少しくすぐったそうに受け入れながら、枕を抱いたまま、上半身を起こしてふふっと笑った。
「……懐かしいなあ……中学生の頃だもんね。あの時はもう、弦一郎とは付き合い始めてたんだよね」
「ああ。付き合い始めて数ヶ月といったところだな。……といっても、まだまだお互い初々しかったな」
あの頃は、本当にまだまだ初々しかった。
もしこれくらいの距離に彼女がいても、こんな風に彼女に触れることはおろか、真っ直ぐ見ることすら、なかなか出来なかっただろう。
本当に青かったものだが、そんな時期があったからこそ、今のこの幸せがあるのだろうとも思う。
「人前では手も繋げなかったようなそんな俺達を、よく蓮二や幸村にからかわれていたものだ」
「そうそう。それこそ執事喫茶の時もすごくからかわれたもんね。弦一郎の執事姿、私なかなか直視できなくて。その時の先輩たちのからかいっぷりったら、本当にすごかったなあ……あの時のこと憶えてる?」
「ああ、憶えているとも。いきなり幸村たちと共に現れたかと思ったら、ずっと俯いてこちらを見ようともしなかった。それをいろいろ言われていただろう、あいつらに」
「うん。ほんと、いい玩具だったんだろうなー」
そう言いながらも、彼女はくすくす笑う。
「確か、紅茶を1杯飲んだらすぐに出て行ってしまっただろう? きっと幸村たちのからかいに耐え切れず逃げ出したに違いないとは思ったが、もしかして見ていられないほど似合ってないのかと、内心焦ったりもしたぞ」
その光景を思い出して真田が思わずくくっと笑うと、はその頬を少し赤く染めながら口を開いた。
「そうだったの? ……ごめんね。ほんとにかっこよかったよ、これは反則だーって思うくらい」
そう言いながらも、彼女の頬の朱色が少しずつ増してくる。
そんな表情を隠すように、は抱きしめていた枕で顔を覆い、その表情を隠して、そのまままた自分の身体を寝床に倒した。
何年も前のことなのに、今更思い出して照れているのだろうか。
枕で隠れたままの彼女を見つめながら、そんなことを真田が思っていると。
「……あ」
顔を隠したまま、が言葉を続けた。
「今だから言っちゃおうかな。……あの時、私が紅茶1杯で逃げ出したのはね、からかわれたからだけじゃなかったんだよね」
「ん? どういうことだ?」
「あの時、他にもお客さんいっぱいいたじゃない? 弦一郎も、私たちの相手ばっかりしてるわけにはいかなくて、他のお客さんもたくさん接客しててさ……」
「ああ、忙しかったからな」
思い出しながら、相槌を打つ。
立海の文化祭は中高同時開催な上、学外にも解放していたから、いつも人で溢れかえっていた。
その時も例に漏れず、自分のクラスの執事喫茶はひっきりなしに人が入っていて、なかなか彼女や親友たちばかりに構ってはいられなくて、彼女が出て行ってしまっても、追いかける事すらかなわなかったほどだ。
「……あのね。嫉妬、してた。他の女の子相手に、『お嬢様』とか言ったりする姿、見たくなかったの」
「そうだったのか?」
数年後にして初めて知った真実に、真田は少し驚いて声を上げる。
「うん。すっごく複雑だったんだよ。弦一郎の執事姿はかっこいいけど、他の女の子相手にする姿は見たくなかったし。その上、女の子も女の子で、弦一郎に馴れ馴れしく『似合うね』とか言うし。ちょっと腹も立っちゃってね」
枕の下から聞こえる言葉には、少し笑みが混じっていた。
そんな嫉妬を抱いた当時の自分を、笑っているのだろうか。
「昔から、私弦一郎のことに関してだけは、独占欲強かったから。例え接客でも、他の女の子を相手にする弦一郎、見たくなくて……」
そう言って、彼女は少し枕をずらして真田の顔を見たが、すぐにまたぱっと顔を覆いなおしてしまった。
あの頃に比べれば、大分彼女も大人になったが、この程度で照れて顔が見られなくなってしまう辺り、全く変わらないとも思う。
何年も変わらないそのあどけなさが、心から愛しい。
くくっと笑いながら、真田は枕越しにじっとを見つめる。
その時。
「――あ」
思いついたような声が、から漏れた。
どうしたのかと思っていると、彼女は顔を隠していた枕を胸元に抱え直し、再度身体を起こす。
そして、隣に横たわっている真田を見下ろし、言葉を続けた。
「ね、もしかして……ほんともしかして、なんだけど。さっき弦一郎が怒ってた理由って……あの時の私と、一緒?」
少し頬を染めながら、彼女が恐る恐る尋ねる。
一瞬真田は何のことかわからなくて瞬きをしたが、すぐに先ほど自分が腹を立てていたことを思い出した。
「ああ――」
彼女が、自分が女子を相手にする姿を見たくなかったというのなら、確かに一緒だろう。
つまりは、単なる嫉妬なのだが。
「そうだな。同じだ」
そう言って、真田もゆっくりと体を起こす。
真田の方が背が高い分、今度は自分が彼女を見下ろす形になった。
自分を見つめていたの顔も自然と上がり、見上げる彼女の目元に掛かっていた前髪を、真田は優しくはらう。
そしてそのまま、ほんのりと赤い頬に触れた。
「……俺も、お前に関してだけは、殊更独占欲が強いからな」
「弦一郎……」
「例えいかがわしい店でなくとも、お前が他の男相手に照れたりするなど、冗談じゃない。お前の照れる顔は、俺だけのものだ」
真田の言葉に、の顔が更に赤く染まる。
そんな彼女の口に、そっと優しいキスを落として、真田はまた顔を上げた。
ふいうちの行為に驚いたのか、彼女は言葉もなく、抱えていた枕にまた顔を埋めた。
そんな彼女を見つめ、真田はくくっと笑う。
そして、囁くように彼女に告げた。
「わかったなら、もう、二度と行ってくれるなよ」
――しかし。
「……え、えと」
彼女から返ってきた言葉は、とても歯切れの悪い返事だった。
どうしたのかと思いながら、真田はもう一度、彼女に繰り返す。
「、執事喫茶など、もう二度と行かないな?」
「……」
今度は、返事すら無かった。
その代わり、自分の顔を隠している枕をより強く抱きしめて、気まずそうに身を縮める。
てっきり素直に「行かない」と返してくれるものだと思っていたのに、どうして今の話の流れでそんな反応になるのか。
「……もしかしてまた行く気なのか」
思わず低い声になってしまったが、それでも努めてきつくならないように、真田はに問い掛ける。
すると、彼女は枕で顔を覆ったまま、とても小さな声で言葉を紡いだ。
「あ、あのね、ごめんなさい……今日帰り際に、また来ようかって盛り上がっちゃって……来週に、予約入れてきちゃったの」
その言葉を聞いた瞬間――真田の動きがぴたりと止まる。
「……ほう……」
相槌のような、溜息のような、重苦しい声が真田の喉から漏れた。
しかし、それ以上は何も言わず、じっと彼女を無言で見下ろす。
「ほ、ほんとにごめんなさい!それで最後にするから!!」
沈黙になるのが気まずいのか、彼女は必死で声を上げる。
「絶対もう照れたりしないし、なるべくすぐに出るようにするから……だから、ね、ごめんなさい!」
一緒に行った子がとても楽しみにしていて、断ることなど出来ないと彼女は言う。
決していい気分ではなかったが、彼女には彼女の付き合いがあるだろうし、仕方ないと思いながら、真田は無言で大きな溜息をついた。
「ごめんね、本当にそれで最後にするから。ね」
そう言って、おそるおそる枕を鼻の先までずらして目元だけを出し、彼女は窺うようにこちらを見る。
怒っていると思っているのか、真っ赤な顔で申し訳なさそうにしながら、上目遣いにこちらをのぞきこんできた。
まるで草葉の陰から窺う小動物のようだ。
とても可愛過ぎて、思わず――少しいじめてやろうか、などと悪戯心が芽生えた。
「――執事喫茶は、そんなに楽しかったか」
「え?」
はぱちぱちと眼を瞬かせて、動揺を露にしている。
そんな彼女に、真田は、満面の笑みでにっこりと笑いかけた。
その表情に驚いたのか、は顔を上げ、可愛らしく眼を瞬かせる。
「……げ、弦一郎? どうしたの? ……やっぱり、怒ってるの?」
「どうもしない。怒ってもいない」
そう言いながら、考えついた「いたずら」を思うと、楽しみで仕方がない。
可愛い彼女が慌てふためきながら顔を真っ赤にする様がありありと浮かび、抑えていても自然と笑みが零れた。
流石に怪しいと思ったのか、は警戒するような表情を浮かべ、恐る恐る口を開く。
「何か企んでるでしょ、弦一郎……」
「企んでなどいないが?」
「嘘、絶対怪しい」
何か自分の身に危ういものを感じ取ったのだろう。
は、少し身を後ろに引いて、距離を取ろうとする。
真田はどこか嬉しそうに笑い、そんなににじり寄るようにして距離を詰めながら、更に言葉を紡いだ。
「嘘じゃない。――ただ、お前がそんなに執事喫茶が楽しかったのなら、俺がそれを叶えてやろうかと思っただけだ」
「か、叶えるって……何を?」
そうおうむ返しに言いながら、更に距離を取ろうとしたの身体を、真田は一瞬で捕まえて引き寄せる。
――そして。
にいっと笑いながら、彼女の耳元に、囁くような声を注いだ。
「つまり、今から俺がお前の執事になってやろうと言っている」
「ええ!? なにそれ」
驚いているのか照れているのか、はその顔を真っ赤にして身体を離そうとする。
しかし、真田はがっちりとその身体を掴んで離さない。
身動きが取れないまま足掻くの顔を、真田はからかうように見つめた。
「それでは『お嬢様』、今日はもう遅いので、ご就寝なさった方がよろしいでしょう。あなたがお休みになるまで、こうしていて差し上げますので、どうかごゆっくりお休み下さい」
「げ、弦一郎ってば……」
「ほう、まだ起きていたいと。では、何をいたしましょうか」
「え、べ、別にそうじゃないけど――」
混乱しているのか、あたふたと戸惑うの顔を、数センチの距離で見つめてくくっと笑うと、その可愛らしい唇を自分のそれで塞いだ。
彼女の動きを奪うほど強く、わざと少し意地悪に責めて立ててから、そっと唇を離す。
「こういうことでしょうか? ……可愛らしいですよ、お嬢様」
「……し、執事ってそんなこと……しないと思う……ていうか、もう許して弦一郎……私が悪かったから……」
そう言って、は赤い顔でうなだれる。
「なんだ、もう終わりなのか。……残念だ」
くくっと笑いながら、火照った彼女をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「遊んでるでしょ、弦一郎……」
少しふくれたような声が、耳の側で響く。
――今度はこちらの勝ちだな。
そんなことを思いながら、胸の中にいる彼女の頭を優しく撫でた。
「こんなに可愛いお前を見られるなら、執事というのも悪くないな」
くくっと笑いながら、からかうように言う。
すると。
「……ダメ。やっぱダメ」
ふいに、彼女が少し語気を強めた。
どうしたのかと、少し身体を離し、彼女の顔を見つめる。
すると、彼女は恐る恐る顔を上げて、少し潤んだ目で訴えるように見つめ返してきた。
――そして。
「弦一郎は執事じゃダメ。……やっぱり、旦那様じゃないと」
そう言って、強くしがみつくようにもう一度全身を預けてきた彼女を、真田は愛しそうに受け止める。
恥ずかしいのか、もうそれ以上言葉は紡がない彼女の身体を、そのまま包み込むように抱きしめた。
「やれやれ、やはり最後に負けるのは俺の方か」
お前には勝てん、と呟いて、仕方なさそうに大きく息を吐く。
しかし、すぐにまた笑みを浮かべ、真田は自分の体もろとも、彼女の身体を寝床に埋めた。
当時、執事×お嬢様バトンというバトンを頂き、真田で指定をいただいたのですが、その回答を考えていて出来たお話です。
タイトルのSは、「真田夫婦」のSかもしれないし「執事」のSかもしれないし「勝負」のSかもしれないし「サド」のSかもしれません。
どれでもお好きな解釈でどうぞ。