奥の深すぎる乙女ごころ

天気の良い、2月中旬のとある平日。
真田は、弁当を食べ終え、昼休みをどう過ごそうかと考えていた。
廊下から名前を呼ばれたのは、そんな時だった。

「真田!」

聞き慣れた声がして、そちらの方に目をやると、そこにいたのは幸村と柳だった。
真田は、親友2人の待つ廊下へと歩み出る。

「どうしたんだ、二人揃って」
「あのさ、テニス部の3年追い出し会のプリント、今持ってないかい?俺、どうやら家に忘れてきたみたいでさ」
「追い出し会のプリント?」

そう言われて、真田は考え込む。
そして、ややあってから、思い出したように声を発した。

「ああ、あれか。……いや、今は持っていないな」
「そうか、真田も持ってないのか」

ふう、と息を吐いて、幸村は言う。

「蓮二も持っていないのか?」
「ああ、俺も必要ないかと思って、家に置いてきてしまっていてな」
「そうか。……しかし何故今そんなものを?」
「タイムスケジュールのこととか、費用のこととか、ちょっと確認したくてね。まあ急ぐわけじゃないんだけどさ、気になったから」

幸村はそう言うと、顎の下に手を当てて考える仕草をしながら、言葉を続けた。

「そっか、キミも持っていないのか……」
「どうする、精市」
「うーん……仕方ないな、部室まで取りに行くよ。流石に、部室まで行けば予備があるだろうし」

柳の言葉を聞き、少し面倒くさそうに苦笑しながら、幸村は言う。
そんな2人のやりとりを聞いていた真田は、少し考えてから、口を開いた。

「どうせ暇をしていたところだ、俺も付き合おう」
「そうか、ありがとう」

真田の言葉に幸村は笑顔で頷く。
そして、3人は部室へと向かって歩き始めた。





2月も中旬になり、卒業まであと1ヶ月となった今、3年である自分たちがテニス部の部室へ顔を出す回数は、格段に減っていた。
この風景を見るのも後少しか――などと、どこか感慨深いものを感じながら、真田は2人と他愛ない話をして、部室へと続く道を歩く。
そうこうしているうちに、部室が近づいてきた。

「……そーっすね、もうちょっと……」
「……だろぃ?」

どうやら部室に誰かがいるらしい。
よくは聞き取れないが、開いた窓から、数人の声が漏れていた。

「誰かいるみたいだね」
「そのようだな」

幸村の言葉に、真田が頷く。
昼休みなのだから誰かがいても不思議はないが、なかなかに賑やかそうだ。
そんなことを思いながら、真田は前を行く幸村に続いて、部室に近づいた。

先頭を歩いていた幸村が、ドアを軽くノックする。
すると、中から返ってきたのは聞き慣れた声。

「どーぞ、鍵開いてるよ」

この声は、今はテニス部の副部長となった、後輩の切原赤也だ。
奴がいるのなら、賑やかなのも当たり前か、などと真田が思っていると、幸村が部室のドアに手を掛けた。

「ごめん、失礼するよ」

幸村が部室のドアを開け、真田も、ドアの中に視線をやる。
すると、その瞬間視界に飛び込んできたのは、切原だけはなかった。
彼のほかに、旧レギュラーの丸井やジャッカルまでもが、ミーティング用のテーブルを囲むようにして佇んでいる。
そして、マネージャーであり、真田の彼女でもあるも、その輪の中に居た。
ふいに目にした大切な彼女の姿に、真田は思わず胸を高鳴らせながら、幸村に続いて部室へと足を踏み入れた。

「何してるの、みんな?」

先に部室に入った幸村が、切原たちに声を掛ける。
それに最初に反応したのは、だった。

「あ、ゆきむ――」

しかし、そこまで言って、彼女の表情が止まる。
そして。

「……さ、真田先輩?!」

彼女は、そう言うと大きく目を見開き、一瞬、完全に固まってしまった。
しかし次の瞬間には、彼女はおろおろと首を振ったり、視線をあちらこちらにやったりして、明らかに挙動不審な姿を見せた。
幸村と柳の後ろにいたから一瞬気付かなかったのだろうが、そこまで驚くことはないだろう。
真田はそんなことを思いながら、不審な彼女の姿にやや呆気にとられつつも、じっと見つめる。

……何をそんなに驚いているんだ」
「い、いえ別に……その、あの、ちょっとびっくりしてしまって」

そう言って、彼女は大袈裟に笑うと、真田から視線を逸らした。
しかしやはりその姿はあまりにも不自然で、彼女が何かをごまかそうとしていることがありありと判る。
怪しいと思いながら、真田は彼女を凝視する。

「ところで、3人揃って一体どうしたんすか?」

そんな切原の言葉に、幸村が答える。

「うん、ちょっと追い出し会のプリントを探しに来たんだけど……」

そう言って、幸村ははたと視線を止めた。
彼らが囲んでいるミーティングテーブルの中央に、食べかけと思われるお菓子が――こげ茶色をした、一口サイズの可愛らしいケーキたちがあることに気付いたのだ。
同じもののはずなのに、1つ1つが微妙に形が違い、何より独特の温かみを感じさせるそれは、いかにも手作りといった雰囲気を醸し出していた。

「あ、美味しそうなもの食べてるね。誰かの手作り?」
「あ、これ、が」
「切原君――!!」

切原の言葉の途中で、遮るようにが大きな声を出した。
思わず、部室に居る全員がの方を見る。
それに気付いたは、真っ赤な顔でごまかすように笑った。

「え、えっと……いえ、その。あ、あはは」

そんな彼女を見た幸村は、興味深そうに笑いながら、テーブルに近寄る。

「これ、さんが作ったんだ」
「……は、はい、まあ……」

何故か少し曖昧に、彼女は頷く。
すると、丸井が笑って口を開いた。

「なかなか美味かったぜ。まー、俺はもうちょっと甘い方が好きだけどな」
「へえ。……俺も貰っていいかな?」

幸村は、残っていたケーキのうちのひとつを指差した。
すると彼女は、首を縦に振った。

「あ、はい……どうぞ」
「ありがとう、じゃあ1つ貰うね」

そう言って、幸村はそのケーキを口に入れた。

、俺も貰っていいか?」

次にそう言ったのは、柳だった。

「え、ええ。いいですよ」

がそう返すと、柳もまた同じように残っていたうちのひとつを手に取り、口に入れた。

「ふむ、なかなかじゃないか」
「うん、美味しいね」
「そうですか?良かったです」

そう言って、幸村たちに笑顔を見せるを横目に、今まで皆を黙ってじっと見つめていた真田が、テーブルに近寄ってきた。
彼女の手作りか――などと思いながら、真田は何の疑問もなく、無言で残っていたケーキに手を伸ばした。
――その時。

「先輩はダメです!」

が、叫ぶようにそう言った。
その言葉に驚いて、真田は思わず手を止める。

「駄目?」

聞き間違いではないかと思いながら、真田はを見つめた。
すると、彼女は気まずそうに目線を逸らしながら、言葉を続けた。

「は、はい。あの、真田先輩は駄目なんです。すみません」

そう言って、困ったように眉根を寄せ、の言葉が止まる。
すると、途端に部室の中が静まり返った。
そんな気まずい静寂を破ったのは、幸村だった。

さん、まだ残ってるけど。どうして真田はダメなの?」
「……それは、えっと……と、とにかく、これには、真田先輩の分は入ってないんです」

のその言葉に、真田はあからさまに気分を害したような表情を浮かべる。

「幸村たちは良くて、俺が食べてはいけない理由があるのか?」

その質問に、は答えない。
気まずそうな表情のまま、困ったように俯く彼女を見ていると、真田はなんだか無性にいらいらした。

何故、自分だけが食べてはいけないのだろう。
別に腹が減っているわけでもないし、これが市販品なら気にもとめなかったかもしれないが、彼女の手作りだというなら話は別だ。
恋人の手作りなら、食べたいに決まっている。
しかも、他の男が食べることは許しているのに、恋人である自分に許さないというのは、一体どういう了見なのだ。

思えば、最初に部室に入ってきたときから彼女はおかしかった。
幸村を見たときは別に驚く風でもなかったのに、自分の姿を見た瞬間ひどく取り乱したりして。
それに、置いてあったケーキのことに幸村が気付いて、誰か作ったのかと問い掛けられた時もそうだ。
切原が彼女だと答えた瞬間、咎めるようにその声を遮った。
まるで、手作りケーキの存在を、知られたくなかったみたいだ。
そこまでして、彼女は自分に手作りを食べさせたくないということなのだろうか。

考えれば考えるほど、イライラが募って仕方がなかった。
そんな気持ちをなんとか抑えながら、真田はもう一度彼女に問い掛けた。

、理由を聞かせてくれないか」
「それは……あの……」

困ったような、迷うような様子で、彼女は真田を一瞬見上げたが、すぐに視線を逸らしてしまった。
――その瞬間、真田の中で何かが切れた。

「いい。――判った」
「あ、あの……真田先輩、待ってください!」

彼女の声が耳に届いたが、答える気にはならなかった。
そのまま、真田は部室を飛び出した。





真田は、苛立ちに任せて適当に歩みを進めていたが、人気のない校舎裏まで来て、やっとその足を止める。
そして、壁に寄りかかり大きな息を吐いた。

部室を去る時のの声が、耳に残っていた。
あんなに悲痛そうに自分の名を呼ぶ彼女の声など、初めて聞いたような気がする。
彼女を悲しませたかもしれない――そう思うと、胸が痛んだ。
しかも、よく考えれば、たったケーキ1つ食べられなかったからと言って飛び出すなど、大人気ないにも程がある。
彼女のことだから、きっと何か理由があるに違いないのに。

(何をやっているんだ、俺は)

ケーキが食べたかったわけじゃない。
彼女の手作りでなければ、拘りなどしなかった。
それに、他の男に食べさせていなければ、ここまで腹は立たなかった。

(……結局、ただの嫉妬じゃないか)

自分は歳よりも大人びていると言われることが多いけれど、どこが大人だというのだろう。
こんな些細なことで嫉妬して、彼女自身まで傷つけてしまうような自分の、どこが。
考えれば考えるほど情けなさが募り、真田は、片手で額を抑えた。

――その時。
ポケットに入れていた携帯が、勢いよく震えだした。
驚きながら、真田はその携帯をポケットから取り出し、ディスプレイを覗き込む。
そこにあったのは、幸村の名前だった。
先ほどの一部始終を見ていた彼が、一体何を言ってこようというのだろう。
からかわれるか、咎められるかのどちらかだろうと、一瞬出るのをためらったが、恐々とした気分で真田は電話に出る。

「もしもし」
『もしもし、真田?今、どこにいるの?』
「……校舎裏だ」
『なんでそんなところにいるのさ。……まあいいや、さんは、今一緒?』
「いや、1人だが」
『そうか、まだ追いついていないのか』

その幸村の言葉に、真田は目を見開いた。
追いついていない、ということはもしかして――

が、俺の後を追いかけたのか?」
『ああ、泣きそうな顔して、慌てて追いかけてったよ』

――泣きそうな顔をして。
その言葉に、真田の胸が痛んだ。
言葉を失い黙り込む真田に、幸村は言葉を続ける。

『あのさ、さっきのケーキの件だけどね。彼女がキミにだけ食べさせたくなかった理由、判ったよ』
「何?」
『赤也達から聞いたんだ。知りたいかい?』
「当たり前だろう!」

焦らすように言う幸村に、真田はイライラしながら叫ぶ。
すると、何故か少し楽しそうに、幸村は言った。

『ねえ、真田、今日は何日?』

唐突なその質問に、真田の挙動が止まる。

「それは、その理由とやらと関係があるのか?」
『勿論』

幸村の言っている意味が、さっぱり判らない。
眉間に皺を寄せながら、真田は答える。

「……2月13日、だろう」
『正解!じゃあ、明日は何日?』
「14日だ」
『ピンポン!これで判ったかな?』
「判るわけないだろう!からかっているのか、幸村」

――2月14日と、彼女が手作りを自分に食べさせないことと、どういう関係があるというのだろう。
あまりにも訳が判らない上に、幸村の声が楽しそうだったので、イライラが更に募り、思わず真田は電話口で叫んでしまった。
すると、幸村は少し呆れ気味に言う。

『あのさ、いくら浮世離れしてる真田でも、2月14日が何の日かぐらいは判るよね?』

その言い方に、なんだか馬鹿にされているような気分になりながらも、真田は答えた。

「……バレンタインだろう、そんなことくらい判っている。しかし、バレンタインなら尚更、俺だけに食べさせない理由が判らん」
『馬鹿だな、真田。明日はバレンタインだけど、今日は違うだろ。……今日のは、練習だったんだよ』
「練習?」
『うん。彼女は、ここ数日ずっとバレンタインの為に練習してたんだって。明日の当日、キミに最高の手作りを渡すためにね。で、その練習のことを聞いた赤也達が、味見に協力してやるから持ってこいって言って、持って来たのがアレだったんだってさ』
「そ、そうか」

彼女が、バレンタインの――自分のために、そんな努力をしてくれていたのか。
そう思うと、嬉しくて顔が熱くなった。
しかし、それはそれとして、やはり判らないことがある。

「だがそれなら別に隠す理由も、ましてや俺にだけ食べさせない理由もないのではないか?」

疑問を隠し切れない声で、真田は言った。

『バレンタイン当日に渡してびっくりさせたかったんだと思うよ。しかも、本番前に練習品を先に食べられるのは、そりゃ嫌に決まってると思うけど』
「……そんなものか?……別に俺は、練習品だろうがなんだろうが、気にしないんだがな……」

――練習品だろうと本番だろうと、あいつが作ったものなら、いつでもなんでも喜んで受け取るのに。
内心そんなことを思いながら、真田は呟くように言う。
そんな真田を、幸村は電話の向こうで笑い飛ばした。

『真田、キミはもうちょっと乙女心ってものを学んだ方がいいかもね』
「……乙女心、か。難しいものだな」

真田が、苦笑しながら言ったその時だった。

「――真田先輩!!」

名前を呼ばれて、真田ははっと顔を上げる。
すると、その瞬間目の中に飛び込んできたのは、今にも泣きそうな表情で息を切らせたの姿だった。

……」

思わず、彼女の名前を呼ぶ。
すると、握り締めていた電話の向こうで、親友のどこか嬉しそうな声が聞こえた。

『どうやら、追いついたみたいだね。じゃ、あとはごゆっくり。ああ、追い出し会のプリントはちゃんと見つけたから、気にしなくていいよ。じゃあね』

そう言って切れた電話を、真田は無言でポケットに押し込む。
そして顔を上げ、目の前の彼女を見つめた瞬間――が、すごい勢いで頭を下げた。

「先輩、ごめんなさいごめんなさい!」
!」

慌てて、真田は彼女の側に駆け寄る。
しかし彼女は、顔を上げずに謝罪の言葉を繰り返した。

「ごめんなさい……」

そう言うと、とうとう彼女は嗚咽し始めた。
しゃくりあげながら、彼女は言葉を綴る。

「あ、あれは……べ、別に、意地悪しようとか、そういうのじゃ……なくて……」

こんな風に泣く彼女など、始めてだった。
どうすればいいのか判らず、あたふたと慌てながら、真田は彼女の前に跪く。

「あ、ああ。判っている、全部聞いた。泣かないでくれ。もう怒ってなどいないから、顔を上げてくれ」

そう言って、泣きじゃくるの顔を覗き込み、言葉を続けた。

「俺こそ、すまなかった。その……嫉妬して、頭に血が上ってしまったんだ。本当にすまなかった。あれは、俺のための練習だったのだな」

真田がそう言うと、は掌で両目を擦りながら、首を縦に振った。

「私、お菓子って、あんまり作ったこと、なくて……だから、練習しようって思って……それだけ、なんです」

一生懸命涙を拭ってはいるが、嗚咽でしゃくりあげるのは、どうしても止まらないようだ。
途切れ途切れになりながらも、彼女は一生懸命言葉を続けた。

「ごめんなさい、ただ、びっくりさせたかった、だけなんです」
「判っている。俺こそ、あんなことで怒ってすまなかった。本当に怒っていないから、頼むからもう泣かないでくれ」

真田の言葉に、は一生懸命こくこくと頷くと、やっと顔を上げた。
まだ涙のあとが残る頬に、真田はおそるおそる手を伸ばし、そっと拭う。
すると、は少し頬を赤らめながら、微笑った。
その表情に、真田の心拍数は一気に上がってしまったが、暴走しそうな感情をなんとか制御して、微笑い返すだけに留める。
そして、立ち上がって口を開いた。

「明日を、楽しみにしているからな」
「はい!先輩のは、特に力を入れて頑張りますからね」

が笑顔で言ったその言葉に、真田は引っかかったものを感じて表情を止めた。
少しだけ無言で考えて、おそるおそるその疑問を口にする。

、『俺のは』ということは……俺以外のものもあるということか?」
「え、あ、はい、他の先輩達や切原君の……」

きょとんとした顔をしながら、はそう言う。
しかし次の瞬間、気付いたように慌てて口を開いた。

「も、勿論義理ですよ?先輩に作るのとは全然違うものですからね!?本命は、先輩だけで――」

顔を真っ赤にして、焦りながらそんなことを口走る
そんな彼女を可愛らしいと思いつつも、真田は内心複雑な気持ちでを見つめた。

例え違うものだろうと、彼女の手作りを他の男が食べると言うこと自体が気に食わないのだが。
先ほど、幸村に乙女心が判っていないと笑われたが、彼女だって男心というものを判っていないと思う。
そんなことを思いながら、真田は大きな溜息をつく。

「……幸村たちに配るのなら、市販品にしてくれ」
「え?」
「これ以上、嫉妬するのはごめんだ。……お前の手作りは、俺だけのものにしておいてくれないか」

自分自身、何を口走っているのかと思いながらも、真っ赤な顔で真田は言った。
そんな真田の言葉に、もまた同じように顔を真っ赤に染め、言葉を失う。
そして、ややあってから、とても嬉しそうにこくんと頷いた彼女の手を、真田は視線を逸らしたまま、そっと握り締めた。

このお話は、共同企画サイト「tricolore」からの再録になります。
バレンタインというお題で、更に「奥の深すぎる乙女ごころ」というタイトルをお題配布サイト様からお借りして、それぞれ好きなキャラで夢を書こう!という企画でした。
書き手が変わるだけで、こんなに違う話になるのだなあと面白かったです。
(お題配布先:酸性キャンディー様※閉鎖されました。ありがとうございました。)