日曜のレギュラー練習の昼休憩中、俺は一人誰も居ない部室で休んでいた。
他のメンバーは外に出て行ったっきり、帰ってこない。
うるさくなくていいかと思いながら、座って少しぼうっとしていると、背後で扉の開く音がした。
誰かと思って振り向いたその瞬間、明るく柔らかい声が響く。
「先輩、アイス食べませんか」
そう言って笑ったのは、マネージャーであり、俺の大切な彼女である、だった。
その眩しい笑顔に少し心臓が高鳴るのを感じながら、体ごと彼女のほうを向き、俺はおうむ返しに問う。
「アイス?」
「はい、アイス。昨日親戚の人が遊びに来て、お土産にってたくさん貰ったので、今日人数分持ってきたんですよ」
そう言いながら、彼女は部室の隅にある冷蔵庫の扉を開けて、スーパーの袋を取り出す。
そして、後ろ手に扉を閉めると、その袋からいくつかアイスを取り出して俺に見せてくれた。
「どうですか、食べませんか?」
「いいのか?」
「はい、家にもいっぱいあるので。ウチの家族だけじゃ食べきれないですし」
アイス、か。
別段好きというわけでもないが、この気温なら、冷菓子は美味しいだろうな。
特に、丸井や赤也は喜ぶだろう。
「そうだな、俺は最後でいいぞ。外にいる、丸井や赤也に先に選ばせてやれ」
あいつらのことだ、どうせ菓子のことになると煩いだろうし。
そう思いながら言った言葉に、はふふっと笑った。
「やっぱりそう言うと思いました。でも、先輩先に選んで下さい」
「別に俺はどれでも構わんぞ。あいつらに先選ばせないと煩いだろう」
「そうですね。それに先輩、好き嫌いないですしね」
そう言ってはまた笑うと、何故かアイスの袋を持ったまま、部室の中をきょろきょろと見渡し始める。
が何をしているのか良く判らず、俺がじっとその様子を見つめていると、彼女はとたとたっと小さな足音を立て、俺の側に近づいてきた。
どうしたのだろうと思いながらも、彼女が急に近づいてきたものだから、否応なしに心臓が高鳴る。
は、そんな俺の耳にそっとその唇を寄せ、小さな声で耳打ちした。
「……わかってましたけど、ちょっと先輩を贔屓したかったんですよ」
は、自分で言っておきながら、少し恥ずかしそうに少し頬を染めて笑う。
ほんの一瞬、俺は自分の心臓が止まったような気がした。
咳払いをして、自分の心をなんとか落ち着けようと試みる。
そして、彼女から少し視線を逸らしながら、俺は呟くように言った。
「そ、そうか……では、俺もたまには一番に選ばせて貰うか」
「はい!」
嬉しそうに頷いた彼女は、スーパーの袋の口を俺の目の前で開く。
いくつかあるアイスは、全部味が違うようだ。
正直ひとつひとつをよく見る余裕も無かったし、味なんてどれでもいいというのが本音だったが、彼女がせっかく選ばせてくれようというのに、適当に取るのは彼女の気持ちを無下にしてしまう気がした。
ざっと一通り確認し、俺はその中から抹茶味のアイスを取る。
すると。
「あ、やっぱり抹茶かあ。なんとなく、先輩は、それ選ぶと思ってました!」
どことなく少し嬉しそうな声で、彼女が言った。
「そうか?」
「はい、なんとなくですけどね」
彼女は袋を持ち直しながらそう言うと、「じゃあ他の先輩たちにも配ってきますね」と笑い、部室の外へと出ていった。
俺の手には、彼女がくれた抹茶のアイスが残る。
抹茶アイスなど久しぶりだな。
というか、アイス自体、久しぶりか――とか。
先ほど部室を見渡していたのは、本当に他に誰もいないかどうか確かめていたのだろうな。
あんなセリフを聞かれたら、まあまず間違いなくからかわれるだろうからな――とか。
あと、そっと耳打ちしてくれたあの「贔屓」という言葉の意味は――とか。
次から次へと、いろいろなことを考えていたら、どんどん体温が上がっていくのを感じた。
アイスのひんやりとした感触はとても心地良かったが、このままだとすぐに溶け出しそうな気がして、アイスの蓋を開け、口に運ぶ。
やはりアイスはとても美味しかったが、顔の熱さまでは冷ましてはくれそうになかった。
1口、また1口と、黙々とにアイスを口に運ぶ。
やはり、この暑さだと冷菓子は美味いな。
そんなことを思っていると、部室の外から、丸井や赤也やジャッカルが何やら言い合う声が聞こえてきた。
内容までは聞こえないが、きっと彼女の持っていたアイスを奪い合っているのだろう。
全く、アイスの一つや二つで大騒ぎしすぎだ、あいつらは。
外に言って一言叱ってやろうかとも思ったが、なんとなくやぶ蛇に繋がるような気がしないでもなく、俺は動かないでいることにした。
やがて、手にしていたカップのアイスの半分が無くなった頃、キイと小さな音をたてて、部室のドアが開いた。
顔を上げると、そこには先ほどアイスを配っていた彼女がいた。
「……アイスは配り終えたか?」
俺が声を掛けると、は後ろ手でドアを閉めながら、「はい」と笑う。
そして、俺の向かいの椅子に腰を下ろすと、空っぽになったらしいスーパーの袋を小さく纏めるように畳み始めた。
「これだけ暑いと、みんな喜んだだろう」
「そうですね、やっぱり丸井先輩や切原君なんかは特に。どれにしようかってすごく迷ってましたよ」
そう言って、彼女は笑う。
「だろうな。あいつらの声が部室の中まで聞こえてきたぞ。……で、お前は何を選んだんだ?」
もう一口を口に運びながら、俺はに尋ねる。
すると。
「あ、私の分は……ちょっと」
彼女は、そう言って苦笑した。
「どうした。お前の分はないのか?」
そういえば、今彼女の手元にそれらしいものはない。
どうしたのだろう。
「もしかして、体調でも悪いのか?」
丸井に負けず劣らず菓子類の好きな彼女が食べない理由など、それくらいしか思いつかなくて、俺はつい心配になりながらに問いを重ねる。
すると、彼女はまた苦笑しながら、首を横に振った。
「あ、いえ。そういうわけじゃないんです」
「なら、どうした」
「……いえ、実は……丸井先輩と切原君が、ジャッカル先輩の分を……」
少々言いにくそうに口篭もりながらも、彼女は説明をしてくれた。
どうやら、丸井と赤也が、ジャッカルに「1口くれ」とせがみ、なんだかんだでほとんどジャッカルの分を食べてしまったらしい。
「丸井先輩たちらしいですけど、ちょっと、ジャッカル先輩可哀想かなと思って……私の分、あげちゃいました」
そう言って、は笑った。
――確かに、丸井と赤也とジャッカルらしいやりとりではあるし、それで自分の分を譲ってやると言うのも彼女らしい優しさなのかもしれないが……それでの取り分がなくなってしまったのなら、可哀想なのはではないか。
「……後で丸井と赤也にはきつく言っておかねばならんな」
眉間に皺を寄せながら、俺は呟くように言う。
すると、彼女は苦笑して言った。
「あの、あまり怒らないであげてくださいね。これだけ暑いとたくさん食べたくなる気持ちは判りますし、二人も、さすがに私のあげた分までは取ってませんでしたから」
「しかし、そのせいでお前が食べられなくなったのでは……」
「家に帰ったらまだあるので、気にしないで下さい」
「そうか……」
俺としてはあまり納得いかないが、彼女本人がそう言うなら仕方ない。
しかし、やはり俺は最後にするべきだったかもしれないな。
そうすれば、俺の分を彼女にやれたのに。
そう思いながら、俺はふと持っていた自分のアイスを見た。
カップの中には、まだ3分の1ほどアイスが残っている。
――ああ、そういえばここにまだ、残っているじゃないか。
「、残り少しだが、食うか?」
そう言って、俺はなんともなしにカップを彼女に見せた。
「え、いいですよ、先輩気にしないで食べてください」
「いや、俺はもう充分食べた。お前も少しは食べたいだろう?」
俺が笑って言うと、彼女は少し黙って考え込む。
しかしすぐに顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、じゃあ、ちょっと貰いますね」
「ああ」
俺が頷くと、彼女は手を伸ばし、俺の手からカップのアイスを受け取る。
そして、中に入っていた木製の小さなアイススプーンを手にとり――何故かそのまま、動きを止めた。
「……」
どうしたのだろう。
ぱちぱちと瞬きはしているが、彼女の手は完全に止まっている。
「どうしたんだ?食べないのか?」
俺が声をかけると、彼女の肩が少し跳ねた。
「……抹茶アイスは嫌いだったか?」
「え? い、いえ!そんなわけじゃ……ないんです、けど……」
そう言った彼女の声は、何故か不自然に上擦ったような声をしている。
心なしか顔も赤いような気がするが――これは照れている、のか?
「、どうした。何を照れている?」
「や、照れ……照れてるっていうか、うん、あの」
彼女の挙動も言葉も、完全におかしい。
理由は判らないが、何かに照れているのは明白で、その様子は正直可愛かった。
くくっと笑いながら、俺は片手で頬杖を付いて、彼女を見つめる。
「どうしたんだ、俺の食いかけは嫌か?」
彼女のことだ、嫌だというわけがないと判っているが、反応が見たくて、少し意地悪な言い方をしてみる。
「や、そんなわけじゃ勿論ないんですけど!!」
やはり予想通りの反応が返ってきて、俺はまたくくっと笑った。
――駄目だ、本当に可愛い。
「どうした、早く食わんと溶けるぞ」
笑って言う俺に、彼女は照れた表情のまま、困ったように呟く。
「先輩……判っててやってるんですか?……もう」
アイススプーンを握り締めて、彼女は更に頬を赤く染めた。
「先輩、いつの間にそんなに余裕たっぷりになったんですか……?もう、ズルイなあ……」
そう言って、真っ赤な顔で彼女は口を尖らせる。
しかし、言っている意味はよく判らん。……余裕?どういう意味だろう。
「……お前といる時に余裕なんてないぞ。いつでも俺はいっぱいいっぱいだ」
そんなことを言いながら、俺は苦笑する。
嘘は無いつもりだったが、どうやら彼女は納得行かないらしい。
真っ赤な顔で口を尖らせたまま、俺に反論した。
「嘘です。いっぱいいっぱいな人は、こんなことをネタにしてからかえないと思います」
……こんなこと?
一体どういう意味だ。
そもそも、一体彼女は何をそこまで照れているんだ。
「、一体どういう意味かわからんのだが……こんなこととはなんなんだ?」
頬杖を解いて、俺は彼女の顔を見る。
すると、彼女はひときわ赤くなった顔で、がたんと音を立てて立ち上がった。
「……い、言わせるんですか……?先輩、今日ちょっと意地悪過ぎませんか……!?」
……い、意地悪過ぎる?
そんなことを言わせるほど、俺は酷いことをしているのか!?
「い、いや、本当にわからんのだ。何をお前はそんなに照れているんだ?」
慌てて俺はに言葉を返した。
すると、彼女の目が、毒気を抜かれたように丸くなった。
「先輩、ほんとに、わかってないんですか?」
「だ、だからそう言ってるだろう」
俺の言葉に、はすとんと腰を下ろした。
どうやら信用してくれたらしいが、俺は一体何をやったというのだろう。
不安でたまらなくなって、俺の心臓はどくどくと鳴る。
「え、えっと……だ、だから……」
彼女は視線を落としながら、声を振り絞る。
しかし、本当に言い辛そうで、その顔がどんどん赤く染まっていく。
「そんなに言い難いことか?」
窺うように尋ねると、はアイスのカップを机に置いて、木のスプーンだけを握り締めた。
「あ、いえ、も、もしかしたら、先輩が気にしてないだけで、私が気にしすぎなのかなあって気もしてきました……」
そう言って、彼女は空いた手で自分の頬を覆う。
「そ、そうだよね、だって……別に、し、したことないってわけじゃないし……やっぱ、気にしすぎ……なのかも」
独り言のようにぶつぶつ呟いて、うんうん頷く。
――そして。
視線は少し逸らしたままだったが、意を決したように、彼女は口を開いた。
「……これ、あの」
これ、と言いながら俺の前に差し出したのは――木製のアイススプーンだ。
「これ……? スプーンか?」
俺が尋ねると、こくんと彼女が頷く。
「これがどうかしたか?」
「こ、これ、あの……先輩が使ってたやつだから……その、このまま使うと……」
――あ。
なんとなく、彼女が言おうとした言葉の先がわかったような気がした。
そうだ。
どうして気付かなかったんだ。
俺の使い差しのスプーンをそのまま使うということは――つ、つまり――間接キ――!
俺の顔が一気に熱を持ち、心臓が暴走を始めた。
気付かなかったとはいえ、俺はそんなことを彼女に強制しようとしていたわけで……!
言葉を失い、俺は思わず頭を抱えて机に突っ伏した。
「せ、先輩?」
「い、いや……本気で気付かなかったんだ……す、すまない」
振り絞るように声を出した。
顔が熱くて恥ずかしくて、彼女の顔が見られない。
「……い、いえ。本当に気付いてなかったん、ですね……」
「ああ、今お前に言われるまで、全然、全く、さらさら、気が付かなかった……」
そう言って、俺達は黙りこくる。
その沈黙がなんとも言えず恥ずかしくて、俺はもう本当に逃げ出してしまいたかった。
「本当にすまない……外の水道で洗ってこよう、貸してくれ」
恥ずかしさに任せて、俺は彼女の手からスプーンを奪おうとした。
――が。
「……い、いえ!別にこれで……!!」
彼女が、スプーンを持っていた手を上げて、俺の手から遠ざける。
俺が驚いて顔を上げ、の顔を見ると、彼女は真っ赤な顔をしながら、言葉を繰り返した。
「これで……!!」
「しかし」
「べ、別に嫌だったわけじゃないですもん!」
持っていたスプーンを握り締めながら、彼女は叫ぶように言う。
「嫌じゃないですもん……先輩との、その……間接……」
顔を真っ赤にして、その先の言葉を失っても、はスプーンを手放さない。
――そんな仕草も言葉も、全てが可愛くて――俺は、どうしようもなく、彼女が愛しいと思った。
「……そ、そうか」
「そ、そうです……よ。だから、このまま、食べます」
「あ、ああ」
「は、はい、じゃあ……」
ぎこちなくそう言い合って、彼女は机の上のアイスのカップを手に取る。
――が。
彼女の手が、再度止まった。
「……溶けてる……」
彼女のぽつりとした言葉が、部室の中に響いた。
「溶けてる?」
「はい、溶けちゃった、みたいです……」
そう言って、俺達は顔を見合わせる。
そして、そのまま無言で2、3度瞬きを繰り返した。
――くすりと、どちらからともなく笑みが零れた。
そして、あっという間に部室の中が二人の笑い声で満たされる。
「ははは、そりゃあこれだけ時間が経てば、アイスも溶けるに決まっているな」
「そ、そうですよね。あはは、おっかしー」
なんだか、おかしくておかしくて、しょうがなかった。
ひとしきり笑い合い、俺達は見詰め合う。
「別に、初めてじゃないんだもん。……恥ずかしがらずに食べちゃえば良かった」
そう言って、彼女は真っ赤な顔で、くすりと笑う。
「そうだな、……別に、初めてというわけではないものな」
そう言って俺は立ち上がり、彼女の側に寄る。
そして、彼女の肩に手を置き――そっと静かに顔を近づけた。
――その時。
背後の扉が、ガターン、と大きな音を立てて開いた。
それと同時に雪崩れ込んできた面子が、一斉に大きな声を発する。
「うわっ!」
「危ねーーーーーーっ!!」
「いってえええ!」
「あーあ、だから危ないって言ったじゃろ」
「全く、もう少しだったのに……台無しじゃないか」
前のめりになった赤也や丸井やジャッカルの後ろで、冷静な顔でそう言ったのは仁王と幸村。
更に、蓮二や柳生までも――
「な……っ!!お、お前ら……!!ど、どうし……」
「……っ!!」
彼女と向き合っていた俺は、その音に驚いた反動で、しっかり前にいた彼女を抱き締めていた。
そんな俺達を見ながら、幸村はにっこりと笑い、平然と言い放つ。
「別に、昼休みの部室は君たちだけのものじゃないしね」
「あれだけ大きな音を立てたり叫んだりしていれば、嫌でも聞こえるぞ、弦一郎」
蓮二も、そう言ってくくっと笑った。
「つーかさぁ、あんだけイチャついてりゃアイスだって溶けるだろぃ」
「部室ん中、絶対温度違うっすもんね」
「う、うるさい!!」
丸井と赤也に、吐き捨てるように怒鳴り散らす。
しかし、声が震えて、威厳も何もあったもんじゃなかった。
彼女のほうは、もう顔が見られないらしい。
必死で俺の身体に顔を埋めながら、ぴくりとも動かない。
「おやおや。さんってば可愛いね、真田」
からかうように笑いながら、幸村が言う。
「おーい、どーしたー?」
「ほっといてやりんしゃい、赤也。きっと真田の胸がいいんじゃろうよ」
「お、お前ら……」
言葉が見つからない。
こうやって引っ付いていれば、更にからかわれることは判っていたが、彼女もどうしたらいいのかわからないのだろう。
……その気持ちはものすごく判るし、離れようと言うつもりはなかったが……俺はどうしたらいいのだろう……
「ま、まあ、いいじゃねえか!仲いいことはいいことだよな、うん!」
「そうですね、昼休みなのですし、別に悪いことをしているわけではありませんしね」
ジャッカルと柳生はフォローしようとしてくれているんだろうか……。
全くフォローになっとらんが。
なんだかもう人事のように思いながら、俺は彼女を抱きしめたまま、時計を見る。
――昼休みが終わるまで、後5分。
そのたった5分が、果てしなく遠い時間のような気がした。
普通にキスはできるのに、間接キスの方が何故かちょっと恥ずかしい。あると思います。