今日は日曜日で、部活は日曜練習のある日だ。
しかし俺は数日前から親戚の法事があり、俺はここ数日学校と部活を休んでいた。
予定では本日に帰ってくる予定だったので、皆にも今日まで部活は休むと伝えていたのだが、父の仕事の都合で、今日の夕方帰る予定だったのを変更して今朝着くように昨日の深夜に車で向こうを出発したのだ。
到着後シャワーを浴びて軽く飯を食ってから来たので、開始時間からは遅れてしまったが、今から合流しても何の問題もない。
数日といえどもテニスから離れている生活は物足りなかったし、身体を動かしたい気分だったのだ。
それに――もうひとつ。
誰にも言えない目的が、俺にはあったのだが。
いつもより少し遅れて、学校に到着した。
休日とはいえ、ほとんどの運動部は休日練習をしているので、活気は平日とさほど変わらない。
各部活の掛け声や練習音が響く中、俺は真直ぐテニス部の部室に向かった。
ドアの前に立ち、軽くノックをする。
誰もいないかと思ったが、すぐに中から聞き慣れた軽やかな声が返ってきた。
「はぁい、どうぞ」
――彼女の声だ。
そう認識した瞬間、思わず己の頬が緩んだのが分かって、小さく咳払いをしてその感情をごまかす。
そして極力表情を取り繕いながら、俺はドアノブに手をかけ、それを押し開けた。
「失礼するぞ」
俺の声とドアの開く音に反応したのか、端の棚で作業していたらしい返答の声の主がこちらを向く。
数日振りの、彼女との対面だった。
「おはよう、」
そう俺が挨拶をしたのと、彼女の目が見開かれたのは、同時だった。
「え、真田先輩!? 今日までお休みだったんじゃなかったんですか!?」
の素っ頓狂な声が部室に響く。
まあ、おそらくこういう反応をするだろうなと思っていた。
彼女の行動が予想通りだったので、つい笑みを零しながら、俺は簡単に事情を説明した。
「そういうわけで、今朝こちらに着いたのでな。
部活にも出られそうだったので来たんだ」
すると、俺の説明を聞き終わった彼女の表情が明らかに曇った。
この反応は予想外だ。
先ほどの反応は予想通りだったが、事情を知ってまさかこんな表情をされるとは――……
「……どうかしたのか」
少し戸惑いを感じながら、俺がに問い掛けると、彼女は心配そうに俺に尋ね返してきた。
「今朝着いたのなら、お疲れでしょうし、今日は予定通りお休みしておいた方がいいんじゃないでしょうか?」
――ああ、なるほど。
彼女は俺が疲れているだろうと心配してくれているのか。
表情の理由が理解できて、俺はほっと胸を撫で下ろす。
彼女らしいその理由に、思わず頬を緩めながら、俺は彼女に答えた。
「いや、車の中でずっと寝ていたから平気だぞ。それに、法事の間はラケットに触れることすらできなかったからな。合間を見つけて軽い筋トレ程度はしていたが、やはり数日程度と言えども体が鈍りそうだ」
疲れが完全に取れていると言えば嘘になるかもしれない。
しかし、ほとんど身体を動かしていなかったのは本当だし、気晴らしに動きたいという気持ちも本当だ。
――それに。
もう一つ、俺には部活に出たい理由があったのだ。
そんなことを思いながら、俺は自分のロッカーを開け、鞄を押し込む。
その背後で、彼女はなおも心配そうに声をかけてきた。
「でも、やっぱり今日はお休みしてください。
真田先輩ならあと一日くらい休まれても問題ないと思いますし」
「いや、本当に大丈夫だ」
「でも」
そんなやりとりを俺と彼女がしていた、その時だった。
「あれ、真田。今日は休みじゃなかったの?」
そんな声が聞こえて、俺達は同時に声のした方に顔を向ける。
すると、そこには練習に一区切りをつけて、部室に戻ってきたらしい幸村がいた。
「ああ、その予定だったんだがな。今朝帰ってこられたので、顔を出すことにしたんだ」
俺の説明に頷きながら、幸村は首にかけていたタオルで軽く汗をぬぐって、部室の中へと入ってきた。
「へぇ。流石真田、タフだね。大丈夫かい? あと1日くらい、休んだら?」
「いや、大丈夫だ。全く問題ない」
幸村もと同じようなことを言うのだな、と思いながら、俺は首を振って部活に出る準備を進める。
すると、更に蓮二が部室へと入ってきた。
「弦一郎の声がしたと思ったが、やはりか。どうした? 今日まで休むのではなかったのか?」
蓮二にも、俺は同じ話を繰り返す。
「……というわけでな、いまから練習に出ようと思ってるんだが」
一通り説明を終えると、蓮二は仕方なさそうにくすりと笑い、口を開いた。
「お前のやる気は流石だが、今日はやはり休んだらどうだ。夜通し車に乗って帰ってきたのであれば、幾ら車中で睡眠を取ったとは言っても、質のいい睡眠とは言えない。疲れは取れていないだろう」
「ですよね、私もそう思います。今日は無理しない方が……」
「俺も同意見だな。真田、今日は帰りなよ」
皆が異口同音に言う。
さすがにこう皆に言われてしまっては、俺も言葉に詰まった。
しかし、こうなってくると俺も意地だ。
数日練習せず体が鈍っているというのに、これ以上休みたくもなかったし――それに。
俺はちらりとの顔を見る。
彼女は心配そうに眉を顰めて、幸村や蓮二たちと共に俺を見ていた。
その表情を見ていると、少し胸が痛む。
……やはり、皆の言うとおり、休むべきなのだろうか。
いやしかし、せっかくここまで来たというのに、帰るなどできるか!
「大丈夫だ、俺は出る!!」
「でも、先輩、無理はしない方が」
「そうだぞ弦一郎、今日は休むべきだ。睡眠が不十分だと、疲れも取れていないばかりか、集中力や注意力も落ちる。思わぬ怪我をしかねないぞ」
「大丈夫だと言っているだろう!」
や蓮二たちと、俺がそんなやりとりをしていたその時。
口元に手を当ててじっと何かを考えていた幸村が、蓮二を手招きした。
そして、幸村は蓮二にこそっと耳打ちし、顔を見合せる。
「なるほど、それはいい案だ」
「でしょ?」
そう言い合うと、幸村は俺に向かっておもむろに口を開いた。
「真田、それじゃあさ、一勝負しようよ。それで真田が負けたら、真田はやっぱり疲れてるってことで大人しく帰る。どう?」
……一勝負? 幸村とか?
勝負を持ちかけてきた幸村の表情は、余裕綽々と言った風だ。
俺が疲れていると思って侮っているからなのか、もとより俺に負ける気はないのか――どちらにしろそのように言われては、俺もその勝負に乗らないわけにはいくまい。
「……いいだろう。ワンセットマッチでいいか? すぐに準備する」
幸村を見据えてそう言うと、俺はすぐに自分のロッカーへと視線を移す。
そして、準備をしようと自分のラケットバッグに手をかけたその時だった。
「あ、真田。違う違う。勝負するのはテニスじゃなくて、腕相撲。それから、勝負の相手も俺じゃなくて、さんだよ」
幸村が、あっけらかんと言い放ち、笑った。
――腕相撲!? しかも、と!!?
あまりにも突拍子のない幸村の提案に、俺は完全に言葉を失う。
一体何を言っているのだ、こいつは!
「ゆ、幸村先輩、なんですか、それ!!?」
の慌てふためく声が響き、俺もはっと我に返った。
「そ、そうだ何を言っているんだ幸村!?」
と俺で腕相撲したところで、勝負になどなるわけがない。
例えどんなに俺が疲れていようと、一瞬で終わるだろう。
そんな茶番に一体何の意味があるというのだ。
そんな俺の混乱を一笑に付して、幸村は言う。
「言葉通りだよ。真田とさんが腕相撲して、真田が勝ったらそのまま部活に出る。さんが勝てたら真田は帰る。簡単なことだろ?」
「そういうことじゃない、俺とが腕相撲したところで、勝負など見えている」
「そうだね、普通の腕相撲ならキミが圧勝だろうし、さんが手首傷めたりしたら困るから、ちょっとルールは変えさせてもらうよ」
そう言って、幸村はまたふふっと軽い笑みを浮かべると、説明を続けた。
「腕相撲と言っても、真田の防衛戦ね。さんには全力で真田の手を押してもらうけど、真田はさんの手を押し返したりせず、ただ耐えるだけ。その状態で真田が10秒間耐えられたら真田の勝ち。で、見事真田の手を押し倒して、真田の手の甲を机に着けられたらさんの勝ち。どう?」
なるほど、俺は耐えるのみで攻撃はしないと言う事か……。
い、いや、しかしそれでも、だ。
「の力程度で俺が押し負かされることなどありえんだろう」
「でもほら、真田は疲れてるから。どうなるか分からないんじゃないかな?」
「たとえどんなに疲れていようと、結果は同じだ」
「お、すごい自信だね。ということは、もし真田が押し負かされたらやっぱり疲れてるってことでいいよね」
ハハっと幸村が笑う。
いや、だから例えいくらどれだけ疲れていようと、さすがにとの力勝負で俺が彼女に押し負かされるなどあるはずがないと思うのだが。
特には女子の中でも非力な方ではないのか?
「幸村、本気で言っているのか?」
俺の言葉に同調するように、自身もこくこくと首を縦に振った。
「そうですよ、幸村先輩! 真田先輩に私が勝てるわけ……」
「おや、さんは全然自信ない?」
「真田先輩がどんなに疲れてたって、流石に力勝負で勝てるとは思えません」
「そうかな、わからないよ? それとね、真田との勝負に使えるいい必勝法があるんだよ。それを教えてあげる。おいで」
――必勝法?
怪しげなその言葉に、俺は思わず眉を顰める。
そうしているうちに、彼女は幸村に誘われるまま、二人で部室の外へと姿を消した。
しかし、それにしても。
どう考えても俺が間違いなく勝つような勝負なのに、幸村のあの自信ありげな顔。
先ほどの幸村と蓮二の内緒話。
そして、「必勝法」。
何を企んでいるんだ、幸村は。
正直嫌な予感しかしないが、それでもやはりどんな策を弄したって俺が腕相撲でに押し負けるとは思えないのだが。
それとも、腕相撲で俺に弱点でもあるのか?
幸村の、「俺との勝負に使える」という言い方が少し引っかかる。
俺は過去に幸村とした腕相撲勝負を思い出した。
そう何度も勝負した訳ではないが、腕相撲の勝率は確か俺の方が高いはずだ。
幸村は見た目よりもずっとパワーはある方だが、それでも純粋なパワー勝負になると俺に軍配が上がるのだろう。
そもそも作戦や技巧関係なくただの力勝負でしかないと思われる腕相撲で、俺に限って使える必勝法とはなんなのだ?
防衛戦という形式に、何か関係があるのだろうか。
俺の頭が疑問符に染まっていたその時だった。
いったん外に出ていた二人が、また部室の中へと戻ってきた。
心なしか、の顔が少し戸惑っているような、ほんのりと顔が赤いような気がするのは気のせいだろうか。
「幸村先輩、それ、本当にやるんですか……」
「さん、今日は真田を帰って休ませたくない? あいつ頑固だし、一度そうと決めたらちょっとやそっとじゃ意思を曲げないから、これしかないと思うよ」
「う……そ、そうですね……」
そんなことを二人が話しているが、本当に意味が分からん。
一体、必勝法とはなんなのだ。気になってしょうがない。
「じゃあ、真田。さんと腕相撲防衛戦1回勝負、もし真田がさんに負けたら家に帰って今日はゆっくり休む。それでいいかな?」
幸村が言う。
そのにやりとした表情からは、嫌な予感しかしない。
しかし、この勝負に勝てば素直に練習に留まらせてくれるのなら、それもいいかとも思った。
――それに。
俺との勝負に使える必勝法、というのがものすごく気になったのだ。
「ああ、分かった。それでいい」
俺は幸村の言う勝負を承諾した。
半ば、好奇心に負けたと言ってもいいが。
試合の場は、蓮二が準備をしてくれた。
部室のミーティングテーブルでは机の幅がありすぎるので、部室の隅にあった、教室にあるものと同じ個人机を中央に引き出してくると、その両側に椅子を並べる。
その片側に俺が座ると、少し遅れても反対側に腰をかけた。
「本当にいいのか、」
「は、はい、大丈夫です。た、たぶん……」
妙に彼女は緊張している。
それはそうか。幸村や蓮二が見守っている中でこうやって向かい合っているのだから、緊張もするだろう。
正直俺も落ち着いているとは言えん。
この至近距離で改めて向かい合うのは、なんだか少し照れくさいものすら感じる。
しかも、腕相撲ということは、彼女としっかり手を握り合わなければならないわけで……。
そう思うと、俺の心臓がどくんと鳴った。
――ああ。もしかして幸村の狙いはこれか。
俺とが手を握り合い照れ合うさまを、見たいだけなのではないだろうか。
(……ありえない話では、ないな)
そうか、もしかしたら幸村は勝敗などどちらでもいいのかもしれない。
俺達の反応を、楽しみたいだけかもしれない。
それなら、その予想通りになってやるのは癪だ。
俺は、大きく息を吸い、必死で気持ちを落ち着かせた。
彼女と手を握る、などと意識をするな。
これは勝負だ。
腕相撲だ。
そう言い聞かせて、俺は机に肘をつき、利き手とは逆の手を差し出す。
「お前は両手でいいぞ、」
そう俺が促すと、幸村が不敵に笑った。
「おや真田、いいの?」
「もちろんだ。それでも負ける気はせん」
そして、俺達の脇にレフェリー役の幸村が立った。
「じゃあ、腕相撲防衛戦一本勝負。真田はさんの手を押し返したら駄目だよ。あくまで防衛のみ、ただ耐えるだけ。いいね?」
「ああ」
「あと、明らかにキミに有利な勝負なんだからさ、少しくらいの反則――たとえば、さんが立ち上がっちゃったり、少しくらい肘が浮いたりしてもOKにしてあげてね」
「ああ、勿論だ」
「よし。それじゃあさん、真田の手を握ろっか」
「は、はい」
とても恥ずかしそうに頷いて、は明らかに顔を赤くしながらも、おずおずとその小さなてのひらを俺の手に絡めてきた。
その手の柔らかさに、俺の心臓もまたどくんと大きな音を立てたが、それを俺は必死で表に出ないように取り繕う。
そうだ、おそらく幸村の狙いはこれなのだ。
手を握り合いお互い照れあう俺達を見たいだけ――絶対にその思惑に乗ってやるものか。
そう思いながらも、彼女のてのひらのあたたかさ、柔らかさを感じるだけで、俺の心臓は速度を増していく。
しかも、すぐ目の前には明らかに照れて頬を染めている彼女がいるのだから、尚更だ。
なんだか思考がまとまらなくなってきて、俺はなぜか焦りが増した。
(落ち着け、たった10秒だ。今狼狽えれば、幸村の思い通りになってしまうぞ……!!)
必死で自分自身に言い聞かせ、俺は大きく息を吸う。
そして幸村の方を向くと、つとめて冷静に、奴に向かって言葉を発した。
「準備はできたぞ、始めてくれ」
俺の言葉に、奴は大きく頷く。
そして握り合う俺達の拳をおさえると、試合開始の合図を高らかに放った。
「よし、それじゃ、いくよ? レディー、ゴー!!」
その声と同時に、彼女の手にぐっと大きな力が加わった。
そして、幸村がすかさずカウントダウンを始める。
「10ー9ー」
の小さな手のひらは、俺の手を必死で押し倒そうとしてきた。
しかし、所詮女の力だ。この程度では、俺の手はやはりびくともしない。
彼女の顔を見ていると必死で全身全霊をかけて挑んできているのは一目瞭然だが、それでもこの程度の力なのだと思うと、むしろ可愛らしさすら感じてしまう。
必死で力を込め、挑んでくるに、傍で見ている蓮二が声援を送る。
「頑張れ、。力の込め方は決して悪くないぞ。その調子だ」
その声援に、は答えることはできない。
代わりに漏れるのは、力を込めて唸るような、それでいてとても可愛らしい声だ。
「んー!!」
次の瞬間、が空いていた方の手も加えてきた。
俺の拳は、の両手で包み込まれる形になる。
両手でもいい、といったのは俺だったが――急なことだったので心臓が跳ねて、ほんの一瞬俺の力が抜けた。
――しまった!
その瞬間、少し俺の腕が後方に倒れた。
同時に、幸村達の声が響く。
「お、さん、ちょっと押したかな?」
「ふむ、40度ほど倒れたか」
確かに、少し押されはしたものの、すぐに俺は立て直した。
俺が押し戻すのは禁止なので、少し倒されたその状態でキープし、彼女の押す力を押しとどめる。
「6、5……」
残り時間が半分を切ったようだな。
はそろそろ限界といった感じだ。
「4、3」
幸村のカウントダウンももう残りわずかだ。
これはもう、俺の勝ちだろう。
――そう、俺が確信したその時だった。
「や、やっぱりあれしかないみたい……」
がぽつりと呟く。
そして。
「せんぱい、ごめんなさい!!」
彼女は、そう叫んだ。
何事だ、と思った次の瞬間――彼女が唐突に取ったその行動に、俺の頭は真っ白に染まった。
なんと彼女は、急に立ち上がると、あろうことかそのまま俺の額に唇を押し当てて、来た、の、だ。
いま、何が起こった。
彼女は俺に、何をした?
その一瞬の出来事で、俺の思考は完全に止まり、手から完全に力が抜ける。
そして。
その隙を突かれ、次の瞬間には、俺の手は見事に机にタッチダウンされてしまっていた――
「さんの勝ち―!」
幸村のその声で、はっと我に返る。
目の前には、既に俺の手からほどいた両手で顔を覆って突っ伏しているがいた。
その髪の隙間から見える両耳は、真っ赤に染まっている。
そうだ、今彼女は俺の額に、キ、キスを――しかもこんな公衆の面前で!!!!
事態が呑みこめて、俺の顔もまた沸騰したように熱くなる。
そうか、これが「俺だけに使える必勝法」とやらだったのか!
「ひ、卑怯だぞ、幸村!! お前の入れ知恵だな!? 、お前も何を考えているんだ!!」
幸村たちがこんなことを考えるのは分かる、しかしまでもがこんな策略に乗るとはどういう了見なのだ!
彼女がこんなことを仕出かしたことが信じられない気持ちと、恥ずかしさとで、俺の語気は自然ときつくなった。
「ご、ごめんなさい!! で、でも、あの……!!」
「でもじゃない! 何故こんな真似を――」
俺が更にに詰め寄ったその時だった。
「はい、ストップ」
そう言って、俺の頭をぱしっと叩いたのは、幸村だった。
反射的に俺は視線を幸村の方に向ける。
すると幸村は、呆れたように息を吐き、口を開いた。
「何故、ってそんなのお前のことが心配だったからに決まってるだろ」
――心配?
確かに先ほどからずっと、彼女は俺のことを心配していたが……。
俺の戸惑いを察したのか、今度は蓮二が口を開いた。
「弦一郎、お前の体力が人より抜きんでているのは俺達皆分かっている。無論もな。しかしそれでも、夜通し車に乗って不安定な睡眠しか取っていない状態では、疲れも取れていないし睡眠も体調も万全とは言えないだろう。そんな状態で無理をして体を動かして、どこか怪我でもしたらどうするんだ。やはり今日は無理して部活に出るべきではない」
「そうだよ真田。それなのにお前が頑なに出るって言うから、俺達皆こんな卑怯な手に出ざるを得なかったんじゃないか。さんだって本当はこんなこと人前でしたくなかっただろうに、それでも俺達の提案に首を縦に振ったのは、恥ずかしさよりもお前を心配する気持ちが勝ったからだろう? その気持ちを汲んでやりなよ」
「む……」
蓮二と幸村のその言葉に、俺は何も言えなくなる。
そして、俺はもう一度彼女に視線を落とした。
まだ恥ずかしいからなのか、俺に怒られたことが辛かったのか、彼女は真っ赤な顔で首を落としてしゅんとしている。
そう、彼女は人前で(額にとはいえ)キスなどできる性格ではない。
ましてや、理由もなく俺を困らせることなどするわけもない。
なのに、こんな手段を強行したのは――自分のことを顧みない強情な俺を心配し、なんとか押し留めるため。
俺は、自分が情けなくなった。
額を抑え、大きく息を吐く。
そして。
「……分かった。俺の負けだ。今日はおとなしく帰ることにする」
そう言って、素直に自分の敗北を認めたのだった。
持って来たままのラケットバッグを背負い、部室を後にして、俺は先ほど降りたばかりのバス停で、帰りのバスを待っていた。
俺の隣には、見送りに来てくれたがいる。
自分が情けなさ過ぎて一度は断ったのだが、どうしてもと彼女が言うので、結局は着いてきてもらった。
ただ、俺は自分自身が情けなくて自然と口数は減ってしまっていたのだが。
「あの、先輩。まだ怒ってます……?」
「ん? 何をだ」
「さっきの、部室でのこと……」
そう言って、彼女が申し訳なさそうに頭を垂れた。
慌てて、俺はそれを否定する。
「い、いや、違うんだ。すまない、俺はお前のことも誰のことも怒っていない。怒っているとすれば、お前たちの心配をないがしろにした自分自身にだ。だから気にするな。俺が悪いことは重々判っている」
「真田先輩が悪いんじゃないです、先輩は数日間やれなかったテニスをやっと出来ると思って学校に来たんですもんね。それを私達に止められて、腹が立った気持ちはわかります。本当にごめんなさい」
自分が悪いわけではないのに、彼女はそう言って頭を下げる。
ああ、こんな優しい彼女に、俺は何を謝らせているんだろうか。
本当に情けない。
「、お前が謝る必要はない。俺が頑固だっただけのことだ。意地にならずに最初から皆の意見に耳を傾けるべきだったのだ」
大体、今日俺がわざわざ学校まで来たのだって、テニスをするという目的だけではなかったのだ。
そして、「そちらの目的」は既に達している。
そう、俺がわざわざ学校まで来たもうひとつの理由。
誰にも言うつもりはなかったが、彼女がこれほど気にするのなら、言わざるを得ないようだ。
息を吐いて、俺は覚悟を決め、口を開いた。
「。本当に気にするな。大体、今日俺がここまで来たのは、テニスだけが目的ではなかったんだ」
「え?」
きょとんとした顔で、彼女が俺を見上げる。
「俺が今日わざわざ学校に来たのは、もう一つ目的があったんだ。そしてその目的はちゃんと達したから、来た意味は充分あった」
「そうだったんですか。それなら良かったです! ……もう一つの目的って、なんだったのか聞いていいですか?」
は、純粋な子供のような目で、俺に問い掛けてきた。
「それ」を告げたら、この目はどう変化するだろうか。
そんなことを思いながら、俺は「それ」を口にした。
「……お前の顔を見ること、だ」
「え?」
「お前と、数日会えなかったからな。無性に、お前の顔が見たかった。だから、来た」
そう、俺のもう一つの目的はの顔を見ることだった。
だから、部室に入った瞬間に、目的は達していたのだ。
俺の言葉の意味を理解したのか、目の前の彼女の顔が真っ赤に染まる。
狼狽えて言葉を失っているが可愛くて、俺は少しからかい気味に笑った。
「まあ、あの展開は予想外だったが……思った以上に至近距離でお前の顔は十分堪能できた。それに、思いがけない『モノ』まで貰ったしな」
そう言って、俺がわざとらしく自分の額に手を当てると、彼女の顔がまた一段と赤くなる。
それに追い打ちをかけるように、俺はわざとらしく言葉を続けた。
「まさかお前の方からあんなことをされるとはな。驚いたが、悪くはない。……あいつらの面前でなければ、もっと良かったんだが」
「せ、先輩……か、からかわないでください! 私だって、必死だったんですから……」
その小さな手のひらで覆うように自分の顔を隠し、彼女は俺の視線から逃げようとする。
あまりにも可愛らしいその様子に、俺はこらえきれずくくっと笑みを零した。
「もう! 先輩!!」
頬を膨らませたが、俺の身体を軽い拳で叩く。
全く痛くないその拳が愛おしくて、俺はまたははっと笑った。
やがてバスが入ってきた。
それを視認すると、俺は乗り込み口に近づきながら彼女に言う。
「今日の帰りは送れないが、絶対に遅くなるんじゃないぞ」
「分かってます、大丈夫ですよ。暗くなる前に帰ります。帰ったらメールしますね」
そんなやりとりをしてバスに乗り込む。
すぐにバスは出発したが、姿が見えなくなるその瞬間まで、彼女はずっと手を振り続けてくれた。
普段は俺が彼女のバスを見送るばかりだから、こういうのも新鮮でいいかもしれん。
――ああ、今日はやはり来て正解だった。
そんなことをしみじみと思いながら、俺はまた、少し熱を持ったままの額にそっと手を触れた。
2019年真田君生誕日祝い&サイト13周年記念です。
日常話になるのかな?真田がちょっと余裕が出ているので、時期的には高校生になってからのお話です。
本来なら絶対勝てるはずのない真田君との腕相撲ですが、こんな手段なら勝てるのではないかとふと思ったことからできたお話でした。
本当に卑怯ですけどね(笑