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「それにしても、本当に暑いな。お前ら、熱中症に気をつけろよ」

2時間目も残り数分というところで、授業時間を余らせたらしい教師がそんな雑談をしている。
それを小耳に挟みながら、真田は手の甲で自分の額に浮いた汗を拭った。

――確かに、暑いな。

大きく息を吐いて、教室の窓から広がる雲ひとつ無い晴天を見やる。
それだけで、なんだか更に汗がじんわりと滲んできそうだった。
どうやら、今年は猛暑らしい。
数値的なことはよくわからないが、既に9月に入っているというのに、熱帯夜がどうだとか、熱中症がどうだとか、連日ニュースで騒がれている。
しかし、暑いからこそ嬉しいこともあったりするのだ。
例えば――この後の3時間目の水泳の授業などは、少々暑過ぎるくらいの方が気持ちがいいと、個人的には思う。
この分だと、きっととても気持ち良く泳げるだろう。

(ふむ、そうだ。特にすることもないし、早めに行って泳ぐか)

2時間目と3時間目の間には20分という少し長めの休憩時間が挟まっているが、その直前直後の2、3時間目に水泳の授業があるクラスに限って、20分休みに自由にコースを泳ぐことが許されていた。(勿論、教師の監視下ではあるが)
気分も晴れるし、3時間目の体慣らしにもいいかもしれない。

(よし、2時間目が終わったらプールに直行するか)

そう決めた瞬間、2時間目終了のチャイムが鳴り響いた。
真田は、机の上を片付けて水泳の準備を手にすると、そのまま教室を後にした。


やがて、3号館の屋上にあるプールにたどり着いた。
プールの側の更衣室で着替えを済ませ、軽く体操をしてから、シャワーを浴びてプールサイドへと足を踏み入れる。
プールには、既に何名かの人がいた。
自分と同じく自由遊泳目的の者もいれば、どうやら授業の居残りの生徒もいるらしく、端のコースでは教師が生徒相手になにやら指導を入れているようだ。

「それじゃ向こうまで行ったら折り返して帰って来い、いいな!」

その声に、一人の女子生徒が勢いよくコースをスタートする。
途端に、腕組みした体育教師が声を張り上げた。

「こら、スタート直後はしっかり伸びろ!」

どうやら、あのコースはただいま彼女専用らしい。

(ふむ、あのコースは使えないのだな)

さして気にも止めず、真田は軽く水慣れにとバシャバシャと自身で水を被ってから、その隣の空いているコースに飛び込む。
――その瞬間、隣のコースにいた見知った体育教師に声を掛けられた。

「おお、真田じゃないか。泳ぎに来たのか?」
「はい。暑いですし、次の時間が水泳の授業なので、少し体慣らしをと思いまして」
「そうかそうか。それはいいところに来てくれた」
「いいところ?」

意味がわからず、思わずおうむ返しをしてしまった真田に、その先生はにっこりと笑って言葉を続けた。

「すまないが、タイマーの電池が切れてしまってな。体育準備室に他のタイマーを取りに行ってくるから、俺が帰ってくるまで、このコースで泳いでいるヤツを少し見ていてやってくれないか。すぐ戻ってくるから」

そう言うと、真田の返答を待たず、彼は勢いよくプールから上がった。
その水しぶきに思わず片目を瞑りながら、真田は慌てて口を開く。

「み、見ていろと言われましても……」

知らない女子生徒の相手をするのは、正直気が進まなかった。
人見知りをするというわけではないが、女子の扱いなど慣れていないし、どうせ怖がられるに決まっているのだ。
そんなことを思い、思わず真田が眉間に皺を寄せた、その時。

「なあに、見ていろと言っても万が一のことがあったら助けてやってくれってだけだ。確かお前の知っているヤツのはずだしな」

予想外の言葉が、先生の口から飛び出した。

「俺が知っている?」

女子で自分が「知っている」といえるような生徒など、誰がいただろうか。
2時間目に泳いでいた生徒なら、同じクラスの女子では無いはずだし――
真田は、ちらりと泳いでいる彼女の背中を見つめる。
しかし、背中しか見えず、髪も水泳帽である程度隠れているので、誰なのかよくわからない。
それにしても、この泳いでいる生徒――決して下手糞ではないが、手足の伸びが足りないのだろうか。
それに、手足をがむしゃらに動かしすぎていたり、息継ぎの際に顔を水上に上げすぎていたりして、なかなかスピードが出ていないように見受けられる。

(一生懸命泳ごうとしているのは解るんだがな……なんだか空回りしている感じだな)

その時、真田の脳裏をある「予感」が掠めた。
一生懸命――けれど空回りする――自分の知っている女子生徒。
――もしかして。

真田がそう思ったのと、先生の口が開いたのは同時だった。

「2−Dのだよ。。確か、おまえんとこのマネージャーになったんだろう?」

その瞬間、真田は大きく目を見開き、全ての挙動を止めたのだった。

、だと……!!)

それは、この夏付き合い始めたばかりの、とても大切な彼女の名前だった。
唐突に出て来たその名に、心臓がどくどくと高鳴る。
しかし、そんな真田の内心などつゆ知らず、先生は「知ってるだろう?」とあっけらかんと笑った。

――ああ、とてもよく知っているとも。

心の中でそう呟きながら、どうしたらいいのかわからず、ただ顔が熱くなる。
すると、無言のままの真田を不思議に思ったのか、先生はコースの上から真田を見下ろして尋ねた。

「真田、を知らないか? この春から新しくテニス部のマネージャーになったのは、確かあいつじゃなかったか」
「え、ええ、彼女です。よく知っています」

真田は口元を軽く覆いながら、慌てて答える。
その答えに「やっぱりそうだったか」と満足そうに頷くと、彼は泳いでいる彼女に向かって大きな声を張り上げた。

「おおい、俺ちょっと新しいタイマー取ってくるから!」

その声は、水の中の彼女に届いているのだろうか。
必死に泳いでいる彼女は、声にはぴくりとも反応しないまま、向こうの壁をタッチしてターンすると、また必死でこちらに向かって泳ぎ始めた。

「それじゃ真田、少しの間だけ頼むわ」

とても軽い調子でそう言い残して、先生はその場を去っていってしまった。

――なんなんだ、この展開は。

いきなりの事態に、真田は必死で頭を整理する。
ただ、体慣らしと涼を取る為に泳ぎに来ただけのはずだったのに、まさか彼女に会うことになろうとは。
まだまだ付き合い始めたばかりで、普通に会うだけでも正直照れ臭くて真顔を保つことが難しいのに、よもや「こんな場所」で――そう思った瞬間、顔が火を吹いたように熱くなり、真田は勢いよく水の中に全身を沈めた。

そう、ここはいわゆる「プール」だ。
つまり、泳いでいる彼女の格好は勿論――。

そんなことが頭の中を掠め、なんだか猛烈に恥ずかしくなった。
当たり前のことなのだけど、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。
恥ずかしくて恥ずかしくて、なんだかよくわからなくなった。

(何を考えているんだ、俺は……!!)

プールで水着を着ているのは当然の話だ。
それに、体育の時間は授業こそ男女別といえども、同じ時間に同じプールを使用しており、授業中何度も他の女子の水着姿を目にしている。
その姿にやましい思いを感じたことなど一度たりとて無いと、神に誓って断言できる。
だから、彼女のそういう姿を見たところで、普通に接すれば何も問題は無い、はずだ。

何度も何度も自分に言い聞かせて、真田はザバアッと大きな水音を立てて、顔を水面に上げた。
――その瞬間。
丁度こちらに着いたらしい彼女が、壁をタッチしたまま大きく仰け反って顔を上げる。

「ハァ、ハァ……」

荒々しい息を吐きながら、彼女は俯いて苦しそうに片手の甲で口元を抑える。
どうやらまだこちらには気付いていないらしい。
吐息に合わせて小さな肩を上下に揺らす彼女に、真田が何の言葉も掛けられないまま立ち尽くしていた――その時。

「先生、もー早くタイムとって終わりましょう……これ以上練習してももう体力落ちるだけですってば……」

そう言って彼女が顔を上げ、視線が合い――
一瞬、時が止まった。

「……え」

小さな声を漏らし、彼女が目を見開いてその挙動を止める。
完全にフリーズした彼女からわずかに目を逸らしながら、真田は無言で気まずそうに咳払いをした。

「え、え? あれ……」

今の状況がよく飲み込めていないのか、そんなことを口走りながら、彼女は小さな掌で口元を覆う。

「う、うむ……その、なんだ。ぐ、偶然だな」
「あ、はい……」

真田がやっと紡いだ言葉に、彼女は目を瞬かせながら小さく頷く。
しかし、そこでまた二人は黙り込んでしまった。
そして。
次の瞬間、大きな水音をたてて、彼女はその全身を水の中に沈めた。
突然の音に驚いた真田もまた、肩をびくりと跳ねさせる。

そのまま、彼女は水の中に身を沈めたま上がってこなかった。
ただ、彼女の吐く息が小さな泡になって水面を揺らしている。
なかなか上がってこないを見下ろし、真田はうろたえるように目を瞬かせた。

やはり彼女も困っているのだ。
こんなところで、こんな姿で、会いたくなかったのかもしれない。
自分がここにいるのは本当に偶然で、彼女がここで水泳をしている事も全く知らなかったから下心など一切無かったと神に誓えるけれど、例えわざとではないにせよ今自分は彼女を困らせてしまったに違いない。

(お、俺は上がった方が良いだろうか。しかし、先生に頼まれたのに勝手に放棄するわけにもいかんし……)

心の中で、焦りばかりが増す。
そのうち、彼女の吐く泡が荒く、大粒になってきた。
直後、息が続かなくなったらしいが、首を伸ばして水上に顔を上げる。

「……ぁ、はぁ……」

少し苦しそうに、彼女は荒い息を吐いている。
そんな彼女を見つめ、真田は咳払いをした。
とにかく、いつも通り接することだ。
焦って言い訳したり、挙動不審になったりしていると、より彼女が嫌な思いをするに違いない。
ただ、やはり彼女の格好が格好だから、余り直視はしないようにして――

一つ一つ確認するように決意して、真田は気持ちを落ち着けるように大きく息を吸う。
そして、視線をやや逸らしながら、やっと彼女に向かって話し始めた。

「じ、事情を説明するとだな、俺は次の時間水泳の授業で、暑かったから少し早めに泳ぎに来たわけだ。そ、そうしたら体育の先生に声を掛けられてな、その、タイマーを取りに行ってくるまで、見ていて欲しいと言われて、今、ここにいるわけだ」

口調が妙にぎこちなく、いつもの態度とは程遠かった。
動揺しているのも、きっとバレバレだろう。
せっかくの決意だったけれど、全く意味はなかったようだ。

「そ、そうだったんですか……ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって……」
「う、うむ。……すまない、俺も驚いた」

そう言って、彼女をちらりと見つめ、またすぐに視線を戻した。
一瞬視線の端に捕らえた彼女は、俯き加減で顔を真っ赤にしていた、ような気がする。
きっと、それは陽射しが暑いからだけではないだろう。

どうしたらいいのか判らなくなって、真田は思わず自分の頭に手を伸ばし、いつものように帽子のつばを下げようとした。
しかし、当然いつもの帽子など被っているわけもなく、その手は額の前で止まる。
仕方なしに、やりどころが無くなった手で、真田は頭を掻いた。

落ち着け、落ち着けと心の中で一生懸命言い聞かせる。
今自分がここにいるのは、別にやましい気持ちがあってのことではないのだから、堂々としていればいい。

真田は、もう一度ごほんと咳払いをした。

「あ、暑いな。これだけ暑いと、水泳の授業は気持ちいいな」
「そ、そうですね」

小さな声での相槌が聞こえた。
聴こえていることを確信して、真田はそのままぎこちない会話を続ける。

「なんだ、その……やはり夏の体育は水泳に限るな」
「はい、や、やっぱり気持ちいいですもんね」
「ああ、俺も、気持ちよさそうだったから、早く泳ぎたくてな。それに、3時間目の身体慣らしにも丁度良かったのでな。偶然お前がいて、驚いたが」

そう言ってから、真田はしまったと思った。
先ほども同じような話をしたし、こんなことを何度も強調すれば、逆にものすごく言い訳臭く聴こえるというものだ。

そう思って自己嫌悪に陥っていると。

「もしかして、あの、私のせいで、先輩の自由遊泳の時間減っちゃいました?」

が、申し訳無さそうに呟く声が聞こえた。

「いや、別にそれは構わん!」

真田は慌てて顔を上げ、捲し立てるように続ける。

「き、気にするな。涼を取るのが第一目的だ、プールに入っているだけでも充分目的は達しているからな」
「ほんとですか?」

窺うように顔を上げ、が尋ねる。
その仕草に、真田の心臓がどくんと鳴った。
それをごまかすように、ははっと笑って再度視線を逸らしながら、真田は頷いた。

「ああ、本当だ。気にしなくていい。しかし、居残りとは大変だな。お前だけか?」
「はい、前タイム計ったときに私だけ見学してて、私だけタイム計ってないんです」
「なるほど、そういうことか。それで今からタイムを計るわけだな」

真田は先ほど高鳴った心臓を落ち着かせながら、つい先ほど彼女が泳いでいたコースを見やる。

「25メートルか?」
「はい。でも、もう練習だけでバテちゃって……タイムは期待できそうにないなあって」

そう言って、彼女が苦笑する。
それにふむと頷きながら、真田は先ほどの彼女の泳いでいた姿を思い出した。
確かにあの泳ぎ方では、タイムは期待出来ないだろうが――細かいポイントを改善すれば、体力云々関係無しにタイムを上げられる可能性は高い。
じっと考え込むと、真田は先ほどとは打って変わって、とても冷静な声でに語り始めた。

「バテるのは、手足をがむしゃらに動かしすぎるからだろう。先ほど見ていた限り、お前のフォームには無駄がありすぎる」
「無駄、ですか?」
「ああ。例えば、足や腕にしてもしっかり伸びきっていない。腕はしっかり伸ばして、耳の後ろで挟むようにしてみろ。それに息継ぎの際も、首を水上に上げすぎている。口が水上に出る程度でいいんだ。顔全体を上げようとするから、水面で無駄な抵抗が生まれ、体力を消耗してしまうんだ」

実演するように自分の腕を上げ、説明を重ねる。
先ほどまでの照れや雑念はどこかへ飛び、真田はいかにして自分の教えたいことを分かりやすく伝えられるかのみに集中し、言葉を綴った。
同じく彼女も、まだ頬は少し赤いものの、真田のせっかくのアドバイスを聞き漏らさないようにと、必死に耳を傾けている。

「……水泳で体力をなるべく消耗させないコツは、水の抵抗を少しでも減らし、流れに乗ることだ。また、そうすることで自然と速度も上がる」
「わ、わかりました。やってみます」

一通り説明を終えると、は強く頷いた。
そして、早速半身を水中に沈めて水の中で腕を回し、一生懸命その場で練習を始める。
そんな素直な彼女が可愛らしくて、真田は思わず笑みが零れた。

(……こういうところが、こいつのいいところだな)

なんだか嬉しくなって目を細めていると、隣で一生懸命手を動かしていた彼女が、ふいに口を開いた。

「それにしても、先輩はさすがですよね」
「何がだ?」
「テニスだけじゃなくって、水泳も出来ちゃうんだもん。天は二物を与えずっていうけど、あれ絶対嘘ですよね。その上優しいとか……もう反則ですよ」

そう言うと、彼女は顔をほんのりと染めながら、くすくす笑う。
そして。

「もう、これ以上好きにさせないで欲しい……」

とても小さな声でそう呟いた。
その言葉に、真田は思わずフリーズする。
そんな真田を見て、ははっとしたような顔をすると、すぐに慌てて口元に手をやった。
どうやら今彼女が口にした言葉は、声に出すつもりは無かったのに、つい出てしまった本音のようだ。

「あ、あの……今のは、あの……!!」

恥ずかしいことを言ってしまったと、完全にパニックになっているのか、は真っ赤な顔でわたわたと両手を振る。
そして、真田から顔を逸らすように勢いよく背を向けると、照れ隠しなのか被っていた水泳帽を取ってそれに顔を埋めた。

「もう……なんかごめんなさい……」

――反則はどっちだ、と思った。

真っ赤な顔で、困ったように俯く彼女の身体は、なんだかいつも以上に小さく見えた。
火照った肌も、首筋に張り付いている濡れた髪も、水の中で揺れている身体の線も、なんだか妙に艶かしい。
いつもの可愛らしくて子どもっぽい彼女とは違った雰囲気を感じ、心の奥で、何かがざわめく音がして――真田は思わず、その背中を後ろからぎゅっと抱き締めたくなった。

その時。

「おおーい、! 待たせたなー」

少し遠くから声が聞こえて、真田ははっと我に返る。
すると、先ほど真田にを預けていった先生が、タイマーを片手にゆっくりと歩み寄ってきていた。

真田は血の気が引いた。
今、この教師が戻ってきていなければ、もしかしたら自分は今彼女を抱き締めていたかもしれない。
こんな――人目につきやすい、しかも、休み時間とはいえ、この時間はお互い授業の延長上のような時間だというのに。
呆然と立ち尽くす真田に、先生は笑ってプールサイドから声をかける。

「真田、ありがとな。それじゃ、俺は向こう側に回るから、準備が出来たら始めるぞー」

幸いにも、先生は二人の異様な様子には気がつかなかったらしく、そのままコースの反対側へと歩き出した。

「あ、は、はい!」

が、慌てて返事をする。
そして、水泳帽子を改めて被りなおしながら、きっと照れ隠しなのだろう、大袈裟に笑って真田に話し掛けた。

「あの、先輩ほんとさっきはごめんなさい。もう私、恥ずかし過ぎますよね……」
「い、いや……」

謝らなければならないのは自分の方だと思ったが、声にならなかった。
まさか、抱き締めたくなったとは言えない。

(……たるんどる……どころの話ではないな……)

自分の情けなさに、思わず頭を抑えた。
その時、コースの向こう側についたあの教師が、思いっきり大きく手を振り上げた。

「おーい、!始めるぞー!」
「は、はい!!」

教師の声に、は慌ててスタートに着く。
そして。

「先輩、さっきのアドバイス、無駄にしないように頑張りますね!!」

彼女がそう言った次の瞬間――コースの向こうから「スタート」の声が響き渡った。




真田は、水の中を進んでいく、彼女の姿をじっと見守っていた。
言葉通り、一生懸命教えたことを守ろうとしているのが伝わってくる。
ただ、意識し過ぎて堅くなっているから、もしかしてタイムは変わらないかもしれない。
不器用なヤツだ、と真田は苦笑した。

――まあ、そんなところがまた彼女らしくて、大好きなのだけれど。

そんなことを思いながら、真田は彼女がゴールしたのを見届けて、やっと自分の自由遊泳に入った。




それからしばらく、真田は無心で泳いだ。
暑くなった身体を冷やすように、何度も何度もターンを繰り返す。
そして、そろそろ時間ではないかと、コースの端にたどり着いて顔を上げた瞬間。

「――先輩、お疲れ様です」

ふいに声を掛けられ、真田は顔を上げる。
すると、すぐ側のプールサイドに、誰かが立っていた。
目に入った雫を振り落とすように手で擦り、もう一度その人影を見上げる。
それは、先ほど隣のコースで泳いでいただった。
もう着替えてきたらしく、夏服のスカートを濡れないように少したくし上げながら、プールを覗き込んでいる。

「お前も、お疲れ様だったな。どうした? 急がないと次の時間に間に合わなくなるぞ」
「はい、あの、さっきのタイム、いつもより良かったんです。先輩のおかげだから、どうしても一言お礼を言いたくて」
「それは俺のおかげでもなんでもない、お前の努力だろう。気にするな。しかし、わざわざそれを言う為に戻ってきたのか?」
「はい!」

真田の問いに即答し、はとても嬉しそうに笑った。
そんな彼女に一瞬呆気に取られたが、これもまた彼女らしい行動だと、真田もつられるように笑みを浮かべた。
すると。

「……でも、ほんとは、もうちょっと先輩を見ていたかったんです、けど」

だって泳ぐ姿もカッコイイから、と彼女は恥ずかしそうにそう言って、小さな舌をぺろっと出す。
その言葉と、その仕草に、真田はまた言葉を失う。

可愛くて、愛しくて、しょうがなかった。
もしすぐ手が届くところに彼女がいれば、今度こそ抑えきれずに抱き締めていたかもしれない。
プールの中と外で離れていて良かったと、真田は安堵の息を吐く。

「そ、それじゃあ、私行きますね!」

その声にはっとして、真田は顔を上げる。
先ほどから彼女に言わせっぱなしだ。
これでは駄目だと、水の中でぐっと掌を握り締めた。

「……!」

名前を呼ぶと、彼女の足が止まった。
振り向いた彼女の顔をじっと見つめると、真田は照れ臭そうに咳払いをする。

「……ちょっと、来い」

そう言って真田が手招きすると、は瞬きをしながら、不思議そうな顔で足をこちらに向けた。
そして、数歩でまた元の位置に戻ってくると、身をかがめるようにして、プールを覗き込む。

「なんですか?」

首を傾げて、が笑う。
真田は、そんな彼女にやっと聴こえる程度の小さな声で、語りかけた。

「お前が今日くれた言葉……そっくりそのまま返させてくれ」
「え?」
「……『これ以上、惚れさせるな』」

そう言った直後、彼女の返事を聞くこともなく、真田は逃げるように勢いよく泳ぎ出す。
そして、体育の先生から「もう授業が始まるから上がれ」と怒られるまで、真田は延々と泳ぎ続けていたのだった。

プールからが上がった時には、勿論もうすでに彼女の姿は無かったけれど、真田の心の中には、先ほどの恥ずかしさや、それを上回る幸せな気分が残っていた。
やがて授業が始まり、合同体育で一緒だった隣のクラスの仁王や丸井にその顔を見られ、「ニヤニヤしててなんか気持ち悪い」と言われたのは、余談である。

以前行った3周年記念アンケートからのネタでした。
好きなキャラに、好きに質問してくださいという問いで、「『真田君、今日体育の授業の時ずっと機嫌が良さそうだったけど、あのとき誰見てたの?』ちなみに体育の内容は水泳です笑 (by 平良さん)」というナイスなお答えを戴き、そこからいろいろ妄想して出来ました。
平良さん、ありがとうございました!