ふたりきり。

今日の部活は午後練習だけだったけれど、真田先輩と私は、2時間前に来ていた。
理由は簡単――英語の宿題を教えてもらうためだ。
まだ提出までには、時間的猶予があるのだけど、どうしても1人で判る気がしなくて。
それで、先輩に泣きついたら、部活が始まる前の時間に教えてくれると言う話になったのだ。
当然、みんなには内緒だ。
言ったら絶対からかわれるし――特に幸村先輩は嬉々として早く来て、2人でこうやって頭を付き合わせているところを、逐一からかうに決まってる。
そしたら、私も先輩も、宿題どころじゃなくなるのは目に見えている。

そんなわけで、誰もいない部室の中、隣同士に椅子を並べて、先輩と私は2人きりで勉強をしていた、のだけど。
私には、大きな誤算があった。
先輩とふたりきりの空間が、こんなに緊張するものだったということを、すっかり失念していたのだ。

目の前には、英語のノートと教科書が広げられているけれど、正直勉強なんて身に入るわけがない。
ふたりきりでこうやって過ごすなんて、付き合い始めてからでも滅多にないことだったから、自分の心臓がなかなか落ち着いてくれないのだ。

シャーペンの先で単語の一つ一つを指しながら、三単元のSがどうの、過去形がどうのと、英語の文法について説明してくれる先輩。
私はその顔を見つめて、声を聞いているだけで、いっぱいいっぱいになってしまう。

先輩は、緊張してないのかな?
いつも、幸村先輩たちにからかわれたりする時は、顔真っ赤にしてるけど……意外と、2人きりとかは大丈夫な人なんだろうか。

連日の練習で日に焼けた彼の顔を、ちらりと覗き込んでみた。
ウチの部でよくかっこいいと言われるのは、丸井先輩や仁王先輩、幸村先輩だけれど、真田先輩だって結構整った顔つきをしてる、と思う。
鼻筋通ってて、目も切れ長で。
中学生には見えないって言われるけど、そこがまたかっこいいんじゃないかと思うのだ。
でも、この雰囲気のせいか、余り人を寄せ付けないし、どうやら一部の人からは怖がられているふしもある。
そんな評判を知り、勿体無いと思った半面、私は安心したりもした。
――先輩の魅力を知ったら、絶対に好きになる子が増えるから。
何があっても、このひとは誰にも渡したくない。

そんなことを思って見つめていると、突然先輩の顔が上を向いた。
たった30センチほどもない距離で、先輩と私の視線がぶつかる。
自分の顔が、熱くなるのを感じた。

「……」

先輩が、無言でこちらを見つめている。
その眉間には、僅かに皺が寄っていた。
勉強に身が入っていなかったのが、ばれちゃったのだろうか。

「あ、あの、すみません、真面目にやります」

そう言って、教科書の方に視線を落とす。
すると先輩は、少し上擦った声で言った。

「……頼む、そう見ないでくれ。その……お前に見られていると思うと、緊張する」
「す、すみません……あの、つい……先輩の顔、見てたくなっちゃって……」

咄嗟に言葉が口をついて出たけれど――私、今すっごく恥ずかしいこと言ったんじゃないだろうか。
そう思ったら、顔がかあっと熱くなって、ドキドキが更に増した。

先輩からは、言葉が返って来ない。
今、先輩は何を思っているのだろう。

そんなことを思いながら、おそるおそる、その顔を見上げた。
すると、先輩とまた視線がぶつかった。
先輩の顔は、真っ赤だった。
きっと私も、負けないくらい真っ赤だろうけど。

その顔を見ているのが恥ずかしいのに、何故か視線を逸らせなかった。
心臓の音が、ただひたすらに煩い。
もう、私の身体から突き抜けて飛び出してしまいそうなほどだ。

真田先輩が、手にしていたシャープペンを置いた。
そして、その手をそっと、私の肩に置く。
その手の熱さが、制服越しでも伝わってきた。
たぶん、その手を通して、私の脈動も彼に伝わっているだろう。

「予感」がした。
私の中に、覚悟のような、期待のような、嬉しさのような、ほんの少しの背徳感のような、不思議な気持ちが生まれ――そして、そっと目を瞑った――



――のだけど。


ピピピッ



無機質な機械音が、突然部室中に鳴り響き、一瞬にしてあのなんともいえない張り詰めた雰囲気をぶち壊してくれた。
ぱっと目を開けた私たちは、光速ともいえる勢いで距離を取り、お互いそっぽを向く。

ピピピッ ピピピッ ピピピッ

全てをぶち壊してくれた機械音は、私たちのことなどお構いなしに鳴り続けている。
その正体は、真田先輩の携帯の呼び出し音だったのだ。

真っ赤なまま、どこか呆然とした様子で、私たちは机の上に乗っていたその携帯を見つめる。
先輩の携帯のディスプレイには、全てをぶち壊してくれた主の名前が点滅していた。

――ジャッカル桑原、と。

大きく息を吐き、やっと、真田先輩が携帯を手に取った。

「もしもし、真田だが――ああ、ジャッカルか……」

彼が話をしているのを横目に、私はそっと部室を出た。



部室を出て、水のみ場まで歩いた。
コックを捻って溢れ出した水流を、遠慮なしに喉に注ぎ込む。
極限まで熱くなった自分の身体を、無意識に水で冷まそうとしたのかもしれない。
気が済むと、私は水を止め、腕で口を拭いた。
身体は少し冷えたけど、ドキドキは収まってはくれていない。

空を見上げる。
何故だろう。
――なんだか、とっても可笑しくなってきた。

「はははっ」

照れ隠しなのか、自分でも判らなかったけど、こみ上げてきた笑いを抑えもせずに、そのまま吐き出した。

結局何も起こらなかったけれど、先輩とそういう雰囲気になったことが、とても恥ずかしくて、ちょっぴり嬉しかった。
正直、先輩が自分を本当に恋人として見てくれているのか、不安に思ったこともあったから。
でも、私をそんな風に見てなかったら、先輩の性格上、絶対にあんなことをしようとはしないよね。
ああ、ちょっと嬉しい。――ううん、ものすごく嬉しい、かもしれない。

そんなことを思いながら、私はまた、空に向かって笑う。
英語の宿題は、まだ余裕あるし、また今度でいいや。
その時は、先輩、携帯の電源は切っておいてくれるかな?

――ふとそんなことを思った自分に、なんだかすごく恥ずかしくなって、私はまた水のみ場のコックを捻った。

初キス未遂。「zero」に続きます。
改装のため読み直していて気付いたのですが、この作品名前変換全く無いですね…!?気づかなかった…