bribe!

休み時間に、弦一郎の教室の側を通りかかった。
ふと、奴はいるだろうかと教室を覗いてみると、廊下側の窓の側の自分の机に座って、携帯を手に頬を緩ませている弦一郎が見えた。
――あの表情からして、からのメールだろうか。
少しからかってやろうかと思い、声を掛けようと窓越しに弦一郎に近寄る。

「げ――」

俺が声を掛けたその時――また、奴の携帯が鳴った。
確か、この音はメールだったはずだと、俺は無意識に記憶の中に蓄積している奴のデータを探る。
まあ、どうせまたからのメールだろうかと思っていると、あいつは少し困ったような表情を浮かべ、ぼそりと呟くように言った。

「……消せん」

消せん?……何がだ?
不思議に思って、俺は窓から声をかけるのではなく、教室の中に入って、そっと奴の背後に近づく。
そして、奴の携帯を後ろから覗きこんだ。
内容までは見えないが、やはりメールを扱っているようだ。
消せん――ということは、彼女からではないのだろうか。
もしかして、迷惑メールでも入ってきて、消した方が判らないのか?

「どうした、弦一郎。メールが消せないのか?」

声を掛けると、奴はびくりと肩を震わせ、俺の方を見る。

「れ、蓮二!! いきなり何だ!!」

焦るように言い、弦一郎は隠すように携帯を伏せた。
……この焦り方は不自然だな。
俺の直感がぴくりと動く。

「なんだか知らんが、消せないんだろう。教えてやろうか?」

そう言って、俺は手を差し出す。
しかし、奴はその携帯を俺には見せない。

「ち、違う。いいんだ。ありがとう、蓮二」

目を泳がせ、何故か照れるように頬を染めながら、弦一郎は首を振る。
こいつがこんな表情をする時は、たいてい彼女に関係しているから、やはりきっと今回もそうなのだろう。
しかし、それでは「消せん」とは、一体……?

「遠慮するな、弦一郎。メールの消去くらい、大した手間でもない。すぐ出来るぞ」

内心の疑問などおくびにも出さず、俺は差し出した手を更に奴に近づける。

「い、いや違うと言っているだろう! 消すものなどない!!」

弦一郎の声が、一段と大きくなった。

「では、先ほどの『消せん』というのはなんなんだ?」
「そ、そんなことは言っておらん、お前の気のせいだ」

そう言った弦一郎の、瞬きの速度が増した。
……本当に嘘の下手な奴だ。

「お前は本当に嘘が下手だな。お前が嘘をつく時は、肱が不思議な動きをするから、とても判りやすいぞ」
「な、何!?」

俺の言葉に叫ぶように言って、奴は自分の肱を持ち上げて見つめる。
嘘が下手な上に、扱いやすいことこの上ないな、この男は。

「……弦一郎、やはり嘘なんだな」

俺が呟くと、奴はやっと気付いたようで、はっと顔を上げた。
見る見るうちに、弦一郎の顔が赤く染まる。

「れ、蓮二……お前という奴は……」
「俺は、お前のそういう素直なところが好きだぞ」

くくっと笑って、俺は続ける。

「で、一体何を消せないんだ? 消してやるから貸してみろ。お前が携帯の扱い方を知らないからといって、俺は馬鹿にしたりしないぞ」

その言葉に、弦一郎は真っ赤な顔のまま、心外そうに言った。

「馬鹿にするな、メールの消し方くらい判る」
「ならば、何故消せないなどと言ったんだ?」

俺が尋ねると、奴はまた、ぐっと言葉に詰まる。
しかしすぐに大きな息を吐いて頬を掻くと、観念したような表情を浮かべた。

「消せないというのは……物理的な意味ではなく……」
「物理的な意味ではない?」
「……気分的に、というかだな……」

ぶつぶつ呟きながら、弦一郎はその顔をどんどん赤く染めていく。
意味が判らないまま、俺はじっとその顔を見つめた。

「気分的に消せない、ということはつまり――本来なら消すべきものを、お前が消したくないと思ったということか?」

俺の言葉に、奴はごほんと咳払いをする。
そして、とても小さな声で、言い辛そうに言った。

「その、つまり……赤也が、な……の写真を送ってきてくれたんだが、どうやらには無許可だったようでな。すぐに彼女からメールが入ってきて……」

――ああ、なるほど。そういうことか。

「赤也のしたことに気付いたが、その写真を消してくれ、と言ってきたんだな。でも、お前は、消したくないわけだ」
「ま……まあ……」

だから消さんでいいのだ、と顔を赤くしながら言うと、弦一郎はその携帯をぐっと握りしめた。

「一体どんな写真だったんだ」

俺が尋ねると、あいつは困ったように眉間に皺を寄せる。

「そ、それは……その」
「言えないような変な写真なのか?」
「い、いや、変な写真などではない。あいつらしい、写真だ」

そう言って、また奴は咳払いをする。
別に見せろと強制するつもりはなかったが、こんなにも隠されると気になるというものだ。
ふむ――こういう時は、そうだな。

「……見てみたいが、確かにプライバシーだ、強制するわけにはいかんな。いやいや、すまなかった弦一郎。では、俺はこれで」

ははっと笑って、俺は踵を返す。
すると、後ろからむんずと肩を掴まれた。

「ちょっと待て。蓮二、何を企んでいる」

眉間に皺を寄せて、奴は俺を凝視する。
よしよし、予想通りの反応だ。

「企むとは、失敬な。素直に引き下がろうとしているのに、何の文句があるんだ」
「素直過ぎるからこそだ……」
「それは心外だな、親友に向かって」

わざとらしい笑みをつくり、俺は弦一郎を見つめ返す。
しかし、奴は俺が何かを企んでいると思い込んでいるのか、その手を離そうとしない。
敢えて何も言わず、俺が弦一郎の目をじっと見つめていると、奴はとうとう大きな息を吐いて肩を落とした。

「……俺が消さなかったことは、彼女には内緒にしてくれるか。後、他の奴らにもだ」

――本当に、扱いやすい奴だ。
俺は、本当に何の策も無かったのにな。
心の中でほくそえみ、俺は奴に「ああ」と頷いた。

「い、言っておくが、大した写真ではないぞ」

ほんのりと顔を赤く染めながら、奴は携帯を操作する。
そして、目当ての写真にたどり着いたのか、奴の手が止まった。

「本当に、言うなよ」

そう言って、弦一郎はそっと俺の目の前に携帯をかざした。
そこには、窓際の席で雑誌を見つめて嬉しそうに微笑む彼女の姿がある。
しかも、よくよく見れば――雑誌のページに写っているのは、この前の俺達の試合の記事だ。
写真に写る彼女の、その手の下には、弦一郎の写真が見えている。
そして、そのメールのタイトルは――「副部長に、ワイロっす」。

「なるほど、『ワイロ』、か」

確かに、弦一郎には最大の賄賂かもしれないな。
しかし、すぐに彼女が赤也の行動に気付いて、弦一郎に「消してくれ」と送ったわけか。
なるほどな。

「この、とてもいい表情をしているな。確かに、大好きな彼女が自分の記事を見てこんな顔をしている写真を消すなど、勿体無くて出来る訳が無いな」
「う、煩い」

わざとらしく言う俺に、奴は「もういいだろう」と吐き捨てながら、赤い顔で携帯を仕舞う。
はは、まさかこんな弦一郎を見る日が来ようとは。
の影響はすごいな。

「幸せそうで羨ましいよ、弦一郎」

そう言って肩を叩くと、弦一郎はふんとそっぽを向いた。
そんな奴を見ていると、ふと悪戯心が芽生えた。
俺は自分の携帯を取り出すと、そのまま奴の姿を写真にとる。

「な、なんだいきなり!」

慌てふためく弦一郎に、俺は笑って言った。

「いや、俺もに賄賂を送ろうかと思ってな」
「た、たわけ! やめんか!! だいたい、そんなことをしたら、俺があの写真を消さなかったことも、お前に見せてしまったこともばれるだろう!!」
「でもきっと、それ以上に彼女は喜ぶぞ。今のお前みたいにな」
「た、頼む! 蓮二、本当に勘弁してくれ!!」

必死に食い下がる奴を、俺はひとしきり楽しむ。
そして、そろそろ勘弁してやろうかと思ったその時。

「――何だか楽しそうだね、真田、柳。何やってるの?」

そんな声がして、俺達が振り向いたその先には――興味津々な、満面の笑みの精市がいた。
隣にいた弦一郎が、完全に固まる。

「ねえねえ、写真がどうとかって聞こえたんだけど、なになに? どういう話?」

写真、とまで聞こえていたか。
これはもう――終わったな。
全部わかるまで、精市は引き下がらないだろう。

「……頑張れ、弦一郎」

そう言って、俺は奴の肩を叩く。
――休み時間は、まだ10分以上も残っていた。

タイトル「bribe」はそのまんま「賄賂」という意味です。タイトルセンスが欲しい。