彼女の顔を見ない日など、彼女に出会ってからほとんどなかったような気がする。
我が立海大附属中テニス部は練習や試合のない日の方が少ないから、マネージャーをやってくれていた彼女とは、必然的に毎日のように顔を合わせ、言葉を交わした。
顔を合わせないのは、月に1、2度あるかないか程度の、部活休みの日くらいなものだったと思う。
そして、彼女の笑顔に、何よりその優しい心に惹かれ、やがて交際するようになってからは、その少ない休みの日に2人で会うこともあった。
そうなるともう彼女の顔を見ない日を探す方が難しいほどで、その笑顔を見るのは、自分にとってすっかり日常となってしまっていた。
しかし情けなくも、それがあまりにも当たり前になり過ぎて、俺は彼女の顔を見ることがどんなに自分にとって大切になっていたか、全く気付いていなかったようだ。
36度で優しく溶かして
から体調を崩したと連絡があったのは、4日ほど前だっただろうか。
「体調を崩しました。学校も部活も休みます、ごめんなさい」――そんな短いメールで、一言連絡があっただけだった。
単なる風邪なのかそうでないのか、どの程度悪いのかも判らない。
気になって、こちらもメールで「大丈夫なのか」と返したが、「大丈夫なので気にしないで下さいね。部活出られなくてごめんなさい」と短いメールが返ってきたのみだった。
その言葉をまるまる鵜呑みにしたわけではないが、「気にするな。ゆっくり休め」とだけ返して、とりあえずそれ以上連絡を取るのはやめた。
メールなどに気を取られることなく、ゆっくり休ませた方がいいと思ったからだ。
そうすれば、1、2日後くらいにはまた変わらぬあの笑顔を見せてくれると、そう思っていた。
しかし、彼女はそれから4日連続で休んだ。
4日目の今日、流石に気になって、朝練が終わった後「4日目になるが、本当に大丈夫なのか」とメールを送ったのだが、丁度先ほど「本当に大丈夫ですから、気にしないで下さい」とまた短いメールで返って来たのだった。
最初にメールを送ってから、半日ほどが経過した、昼休みのことだった。
気にしないでいられるわけがないだろう――そう思いながら、俺はそのメールをじっと見つめていた。
病気で苦しんでいたりはしないのだろうか。
ただの風邪にしても、学校を4日も休むような風邪ならば、やはりそれなりに高熱であったり、頭痛や腹痛などで苦しんでいたりするのではないだろうか。
少なくとも、1日目は、メールで言っていたような「大丈夫」な状態ではなかっただろう。
俺に心配をかけさせまいと嘘をついたに違いない。
そして、今はどんな調子なのだろう――考えれば考えるほど、心配が募る。
……見舞いに行こうかと、ふと思った。
いやしかし、体調の悪い時に押し掛けるのは迷惑だろうか。
でも、彼女の好きな菓子でも持っていって、少し励ますだけなら、構わないだろうか。
そんな葛藤を心の中で延々と繰り返したが、結局俺は、行くことに決めてしまった。
やはり彼女が心配だったのと、何より、俺の中で彼女の顔が見たいと言う気持ちが膨れ上がっていて、その欲求が勝ってしまったのだ。
放課後、部活の練習を30分だけ早めに切り上げた俺は、急いで学校を飛び出した。
他の皆は、1日くらい休めばいいのにと言ってくれたのだが、流石に練習を丸々休むことは出来なかった。
以前、当の彼女が、テニスに打ち込む俺の姿が好きだと照れながら言ってくれたことがある。
だから、自分の見舞いの為に俺が練習を休んだと知ったら、喜ぶよりむしろ恐縮してしまうに違いないと思ったのだ。
学校を出ると、途中駅の近くの菓子屋で彼女の好きな菓子を買って、そのまま彼女の家に向かう。
そしてやっと彼女の家に着くと、俺は家の門の前で一呼吸して、彼女の部屋の窓を見上げた。
あの窓の向こうに
がいるのだと思うと、それだけでなんだか脈が速くなって顔が熱くなった。
彼女の顔を最後に見たのは、もう5日も前だ。
まるまる4日間も彼女の顔を見ていない。声も聞いていない。
そう思うと、早く彼女に会いたくて仕方がなかった。
――緊張しながら、玄関の呼び鈴を押した。
彼女の家に来るのは初めてではなかったが、やはり何度来ても緊張してしまう。
特に、この呼び鈴を押して、応答があるまでのこの数十秒が、本当に妙に緊張するのだ。
そんなことを思って心臓を高鳴らせながら、俺は応答を待った。
……しかし。
1分経っても2分経っても、うんともすんとも言わなければ、扉が開く気配すらもない。
不思議に思って、もう一度呼び鈴を押したが、やはり結果は同じだった。
「……留守、か?」
そう呟いて、もう一度彼女の部屋の窓を見上げる。
寝ていて気付かないのだろうか。
それとも、丁度病院にでも行っていて、本当にいないのだろうか。
どちらにしろ、今日は彼女に会えないということか――そう思った瞬間、俺は明らかに落胆してしまっていた。
久しぶりに会えると信じていたのに。
ほんの少しでも、彼女の顔を見、声を聞くことができると思ったのに。
こんなに落胆している自分を情けなく思いながら、俺は大きな溜息をついた。
「連絡を入れるべきだったな……」
改めて考えると、彼女の家に来る前に、連絡の1本も入れるのは至極当然のことだ。
彼女に会いたい一心で暴走して、こんな常識知らずのことをしてしまった自分が、今更ながら恥ずかしかった。
自戒の為にも、会えなくて良かったのかもしれない――そう思いながら、俺は手の中にある菓子の箱を見つめる。
持って帰っても仕方ないから、袋ごと門の内側にでも入れておくかと、俺は門に手を伸ばす。
――その瞬間。
「真田先輩!」
背後から、聞きなれた声が聞こえた。
そう、俺がずっとずっと聞きたくて仕方なかった、あの声が。
慌てて振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、1台の車だった。
その車の助手席の窓から
が顔を出しているのが見え、俺は思わずその名前を呼ぶ。
「
!」
それと同時に、彼女は慌てて車から降りてきた。
そして、すぐ目の前の位置まで駆け寄り、俺を見上げる。
「せ、先輩、どうしてここに?」
そう言うと、彼女は驚いた表情で目を瞬かせた。
「いや、その……見舞いに、な……」
久々に見た彼女に胸が高鳴って、上手く言葉が纏まらない。
たった数日会えなかっただけだというのに、情けないにも程があるなと思いながら、俺はなんとか言葉を続けた。
「すまない、連絡でも入れれば良かったのだが、失念していてな……」
俺が情けない調子で声を繋いでいた、その時。
運転席にいた彼女のお母さんが、車内から顔を出した。
「真田君、わざわざ来てくれたのね。ごめんなさい。この子、いつもはものすごく元気なくせに、たまに体壊すとこんなことになるんだから。42度の発熱だなんていつぶりかしらね、
」
――42度!?
その言葉に驚いて、俺は目を見開く。
絶句して俺が彼女を見つめると、彼女は慌てておばさんの言葉を咎めるような声を発した。
「お、お母さん、それは……!」
「あ、そういえば真田君には内緒だって言ってたっけ、ごめんごめん。……じゃあ、母さんは買い物に行ってくるから。真田君、良かったら中に入ってゆっくりしていってね」
あっけらかんと笑って、おばさんはそのまま車を走らせて行ってしまった。
その車を呆然と見送って、俺は隣にいる彼女に視線を移す。
「……そんなに悪かったのか」
俺の言葉に、彼女は決まり悪そうな顔で黙り込む。
――こういう反応をするということは、やはり本当のことなのだろう。
「どうして本当の病状を教えてくれなかった」
「あ、あの、とにかく、中に入りませんか?」
苦笑して言葉を濁しながら、彼女は自分の家の門に手を掛ける。
しかし、俺は首を横に振った。
「いや、元々お前の顔だけ見たらすぐに帰るつもりだった。俺のことは気にせずゆっくり休め」
「いえ、もう本当に大丈夫なんです。熱は昨日の昼頃にはほとんど下がってましたし、今日は一応と思って休んだだけですし……。それに今さっき、お医者さんのお墨付きを貰ってきました」
彼女はそう言って笑ったが、そんな酷い状態だったと聞いては、その言葉に甘えるわけには行かない。
俺は、再度首を横に振る。
「そういうわけにはいかん。病み上がりなことにかわりはない」
そう言って、俺は持っていた菓子箱を彼女に差し出した。
「また、元気になってからゆっくり話は聞かせてもらうから、これでも食って早く元気になってくれ」
「先輩……」
「部活のことは気にしなくていいから、元気になるまでゆっくり休むんだぞ。――ではな」
押し付けるように彼女に箱を渡すと、そう言い残して軽く手を上げ、俺は踵を返した。
――しかし、その瞬間。
制服のすそが何かに引っ張られるような感覚がして、俺は反射的に振り向く。
すると、俺の制服のすそを握っている、小さな手が視界に入ってきた。
「
?」
慌てて、俺はその手の主を見つめる。
「……先輩、待ってください。10分……ううん、5分でもいいです」
「い、いやしかし……」
「お願いです。どうしてもって言うならうちに入らなくてもいいです。だから、もうちょっとだけ……一緒に……」
言葉は、そこで途切れる。
小さいけれど、とても一生懸命な声でそう言った彼女は、恥ずかしそうに俯いていて、その表情は見えなかった。
しかし、その言葉と、俺の制服を必死で握り締めているその小さな手に、俺の心拍数は一気に跳ね上がった。
「……本当に、大丈夫なんだな?」
咳払いをしながら尋ねた言葉に、彼女はこくんと頷く。
「ほんとに、大丈夫なんです。もう熱もないし、お医者さんも大丈夫って言ってくれたから明日からは学校に行って部活にも出ようと思ってましたし……だから、あの……もうちょっとだけ……。せっかく久しぶりに先輩の顔見れたのに、もうお別れなんて寂しいです」
そう言って、彼女は俺の制服のすそをつかんでいたその手に、一層力を込めた。
恥ずかしさを隠すためか、更に首を落としてしまった彼女の表情は、依然としてうかがい知ることは出来ないが、髪から覗く彼女の耳は、真っ赤に染まっている。
世間ではどう思われているのか知らないが、こんな風に甘えられているのに、それをはっきり拒否できるほど、俺は冷静でも出来た人間でもない。
――大体、俺だって彼女に会いたくてたまらなかったのに。
「少し……だけだぞ」
俺がそう言うと、彼女はぱっと顔を上げ、とても嬉しそうに破顔した。
しかし、実のところ、その言葉は彼女に言ったというより、自分に言い聞かせたようなものだったのだが。
は入らなくてもいいと言ったが、病み上がりの彼女を長い間外に突っ立たせるわけには行くまい。
俺は彼女と一緒に家の中に入って、言われた通りリビングのソファに座り、
を待った。
しばらくして、ガラスのコップに入った飲み物を2つ持って、彼女が現れた。
「
、気を遣うな。俺はすぐ帰るのだからな」
「……帰ってほしくないから持って来たんですけど」
苦笑しながら、彼女はその小さな舌を見せる。
その言葉と表情に、俺はまた脈が上がった。
どうして彼女はこんなに俺の心を刺激することに長けているのだろう。
そんな思いをごまかすように、俺は咳払いをした。
「先輩、わざわざありがとうございました」
「いや、連絡も入れずに押しかけて悪かったな」
「いいえ、でも丁度帰ってきた時で本当に良かったです」
そう言いながら、彼女はコップをテーブルに置き、俺の向かい側のソファに腰掛ける。
4日ぶりに見る彼女の顔は、少し痩せたような気がした。
「……
、体は本当に大丈夫なのか?」
「はい、もう治りましたから。今日だって本当は行けたんですよ、でも皆にうつさないように、大事を取って休んだだけで……。明日から部活にも出るつもりですしね」
俺の質問に、
は躊躇うことなくそう言い放つ。
しかし俺は、その言葉をそのまま受け取ることは出来なかった。
「
、無理はするな。部活ならどうにでもなる」
「無理じゃないですよ、本当にもう昨日のうちに熱も下がってるんですから」
「しかし」
「いえ、本当に大丈夫じゃないなら先輩たちにうつしたくないから行きませんし、今だって先輩を引き止めたりもしませんって! 本当に本当に大丈夫なんです!! 確かに初日は42度ありましたけど、点滴を打ってもらって大分下がりましたし、昨日の昼頃には平熱まで落ちてたんですから」
やはり、1日目はそんなに酷かったのか。
最初の日のメールは嘘だったのだな。
そう思った瞬間、俺の表情が変わったことに彼女も気づいたのだろう。
しまった、という顔つきで、彼女はきまり悪そうに視線を逸らした。
「……
。そんなにひどかったのなら、どうして教えてくれなかったんだ。初日のメールで、お前はそんなこと一言も言わなかっただろう」
「すみません、でも、言ったら先輩絶対に心配すると思って」
「たわけ、何も聞かせてもらえない方がもっと心配するだろう」
俺はそう言うと、大きなため息を零す。
その言葉に、
ははっとした顔で目を瞬かせた。
「俺に心配を掛けさせまいとしてくれるお前の好意は理解できんことも無いがな……。何も知らないでいる方が余計に辛いということを判ってくれ、
」
俺がそう言うと、彼女はしゅんとして俯いた。
そして、小さな声で「ごめんなさい」と呟くように言った。
――少しきつい言い方をしてしまっただろうか。
俺はそっとソファから立ち上がり、彼女の側に近寄る。
「……判ってくれたならいい」
そう言って俯いたままの彼女の頭にそっと触れながら、彼女の隣に腰を下ろした。
もし俺の言葉で落ち込ませてしまったのなら、俺が言った言葉はお前が大切だからこそなのだということを判ってもらいたい。
何と言えばうまく伝わるのだろう。
少し無言で考えて、俺は口を開いた。
「……俺はどうやら……その、お前に関しては少し欲張りなようだ。お前のことで知らないことがあるのは嫌だというか、お前のことは何でも知っておきたいというかだな……や、やはり、好きな相手だからこそというか、お前だからこそというか……う、うむ」
言葉を探しそのままを彼女に伝えたが、あまりの恥ずかしさに言葉がおかしなことになってきてしまった。
何を言ってるんだ、俺は。
そんな感情をごまかしながら、俺は視線を逸らして咳払いをする。
……
……彼女からの返事がない。
さすがに少し恥ずかし過ぎることを言ってしまっただろうか――
そう思うと、顔が熱くなった。
側にいる
の顔を、ちらりと横目で見る。
すると、彼女はとても真っ赤な顔をしていた。
まさか、熱がまた上がってきたのでは!?
俺としたことが、自分の話に精一杯になって彼女の体調も気づけないとは……!!
「大丈夫なのか、
。また熱が上がってきたんじゃないか?!」
俺があわててそう言うと、彼女があわててその首を一生懸命横に振った。
「い、いえ、そうじゃなくて……!!」
「しかし、顔が……」
「違います違います!! ほんと、違うんです!! 顔が熱いのは、風邪のせいじゃないんです……」
彼女は顔を伏せながら、手を必死に左右に振る。
そして、消え入りそうなほど小さな声で言った。
「……私の顔が熱いのは、先輩が、今言ってくれた言葉のせいです……」
……俺の言葉?
ということは、つまり……
俺が頭を整理していると、彼女は付け加えるように言った。
「だ、だって先輩、そんなストレートに言ってくれたこと、ないじゃないですか……だから、ちょっと慌てちゃって……それだけです」
――ああ、そういうことか。
彼女の顔が熱いが赤いのは、俺の言葉に照れていたのか。
納得すると同時に、俺の顔もかあっと熱くなった。
「……そ、そうか。変なことを言ってすまなかったな」
「べ、別に変なことじゃないです!!ちょっと恥ずかしかったですけど、……すごく、嬉しかったですよ」
はにかみながらそう言って笑った彼女の顔が、さらに赤く染まる。
その可愛らしさを見ていられなくなって、俺は思わず手のひらで軽く顔を覆って視線を逸らした。
……すると。
「……先輩も、顔、赤いですけど。風邪、ですか?」
そう言って、彼女が少しいたずらっぽく笑った。
「いや……熱っぽいが、風邪ではないな。これを風邪と呼ぶなら、俺は年中風邪だ」
俺がそう言うと、彼女はまた赤い顔でくすりと笑う。
「……じゃあ、私も年中風邪です。しかも、一生治りません」
その言葉は、俺の何かを激しく刺激した。
抱き寄せたいとか、――キスをしたいとか、そんなよこしまな思いが沸き上がるのを一生懸命抑えて、俺はごまかすように手のひらを彼女の額に伸ばす。
は少し驚いたように一瞬だけ体を硬直させたが、そのまま俺の手のひらを受け入れた。
ほんのりと温かい彼女の体温が、手のひらを通して伝わってくる。
「こんな状態だと、熱があるのかないのかわからんな。本当は今何度なんだ」
「多分36度台くらいかなと思うんですけど……わかりません、もう」
そう言って、彼女は照れながら笑う。
そして、彼女も負けじと俺の頬にその小さな手のひらを伸ばしてきた。
「先輩も、熱いですよ? 何度あるんでしょうね」
「多分俺も36度台くらいだと思うが、今に限ってはわからん」
俺もそう言って笑い返すと、彼女は「じゃあ、一緒ですね」と嬉しそうに呟いた。
その可愛らしさに我慢ができなくなって、俺はとうとう
の体をそっと抱き締める。
「……俺はやはり修行が足りんな」
「え、どうしてですか?」
俺が思わず呟いた言葉を聞いて、
は俺に問いかけて来た。
「いや……お前は病み上がりなのだし、今日は絶対にこういうことをしてはいけないと言い聞かせていたのだがな……」
彼女を抱き締めたまま、苦笑する。
すると彼女はくすりと笑った。
「……先輩らしいですね。でも、そんな修行ならむしろたりないままでいて下さい」
彼女のそんな言葉を、俺は肯定も否定もせずにふっと笑った。
そして。
「この様子なら、明日は本当に大丈夫そうだな」
――耳元で囁いた言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。